あるときを境に、自分はオリンピックというものが嫌いになった。
さて、いつのことだったか・・・。
自分がある程度知恵らしきものをつけ初めた時分であるから、かれこれ二十年ほど前のことであろうか?
とはいえ、そんな大それたことがあったわけではない。
ことは単純明快、(恐らくだが)IOCの定める放映権料が、日本に対して圧倒的に不平等、具体的には大いに吹っかけられていると知ったときである。
それ以前は、まあ四年に一度のお祭りであり、さまざまな競技において頑張っている人が結果を出す、いわば晴舞台であり、無邪気に喜んでいたものだと記憶している。
が、その事実を知ったときから、大いにあの巨大なスポーツの祭典というものに嫌悪感を抱くようになった。
裏切られた、という思いに近いであろう。
所詮は金か、と。
当時はまだまだ若造であり、多感な時期でもあった。
盗んだバイクで走り出しそうな勢いである。
若さゆえ、というやつだ。
自分の嫌いなもの、理解できないものを憎悪し、攻撃し、排斥し、徹底的に貶めてやりたいなどと考えるのは。
ある程度ヨワイというものを重ねれば、それはより静かな対応、つまりは緩やかな無関心というものにすりかえて己の内で決着するようになる。
人によるかも知れないが。
たとえば、である。
学生の時分、クラスに嫌いな人間がいたとしよう。
理由はさまざまであろうが。
態度が悪いとか、口が悪いとか、話が合わないとか、中には生理的にいや、というものまであるだろう。
そういった人間に対して、どのような対応をするかということである。
高校生くらいになれば、そのような人間とは交わらなければ良い、ということがわかってくる。
礼を失さない程度の対応は必要だが、関心を持たず、交わらないようにすればそれでおしまいである。
「お前になんか関心はないし、友達になんかならないよ」
というのをそれとなく態度であらわすのである。
ここまでの経験則では、自分がそのように思っていれば、往々にして向こうもこちらと交わろうとはしないものだ。
ま、陰口の一つも叩かれているかも知れないが。
だが、小学生や中学生などの年代はどうやら違う。
嫌いなもの、理解できないもの。
そういったものを積極的に憎悪しようとする。
そして莫大なエネルギーを消費して、それらを攻撃、排除しようとするのである。
それらの情動が端的に言えば”いじめ”というものになるのだと考える。
個人差はあれど、このような攻撃性など、餓鬼の時分は誰しも隠せないものである。
が、あるとき。
己のうちの攻撃性というものに、ふと気が付く。
そして考えるのである。
このようなものをたやすく発露させるのはジンセイにおいて大いなる無駄である、と。
何しろ、なにかを積極的に憎悪する、憎悪しつづけるというのは莫大なエネルギーを必要とする。
そして、嫌いであることと自分にとって無益であることは必ずしもイコールとならぬことを知るのである。
ゆえに、対象が人間であれ、事物であれ、適度な距離感というものを学んでいくのである。
話を戻そう。
当時の自分はまさしくそれであった。
ただし、そんな攻撃性の矛先は”オリンピック”に象徴される不公平で理不尽な、善人面した拝金主義者どもに向けられていた。
なんと青臭いことか。
所詮、世界の片隅のクソガキになんぞ、できることなど何もない。
叫ぼうがわめこうが、竜車に蟷螂である。
結果として、自分は実践することとなる。
「誰があんなもの見るか!一生オリンピックなんぞ見ないからな!」
笑ってしまうが、これがつまりは距離感というものである。
自分は結局のところ何も出来ない。
ならばせめて関ることだけはいたすまい、と。
動機は無関心というものとはかけ離れてはいるが。
時は流れ。
憎悪の炎を燃やしていた青臭い少年も、いつしか枯淡の境地?に達する。
現在においてはまさに無関心である。
正直、どうでもいい。
”あー。オリンピックあるんだー。せいぜい頑張ってね。”
で、気が付くと終わっているなんてのが関の山であろう。
知り合いに聞くと
「あー。別段見たいとは思わないけど、見るものないとつい見入っちゃうんだよね」
などという答えが返ってくる。
ま、そんなものかも知れない。
しかし、今回は自分においては残念ながら、そのような機会は無いようだ。
なぜならば、つい先日、当家のテレビが崩壊したからである。
ウンともスンとも言わなくなった。
現在、テレビのない生活を送っているわけであるが。
実はこれ、なかなかいいかも知れない。
日々の生活が静かになったような気がする。
こうやって人間、どんどん取り残されていくのかなあ。
そんな風に思いながらも、なぜか新しいテレビを買う気の起きない自分である。
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