過日。
とある知人と、ワインのお話になった。
残念ながらその道に関してはズブの素人である。
ワインといえば、思い浮かぶのは
『値段も敷居も高くてシブいだけの発酵葡萄汁』
というのが当方の認識である。
いろいろと語弊のある物言いだと感じる向きもあろうが、実を言えば当方、おおよそアルコールに類するものが総じて苦手である。
昔は浴びるほど呑む事もあったのだが、とある酒の席での失敗により、全く呑まなくなって久しい。
その頃ですら酒の味などわかっていなかったのだから、呑まなくなって随分と経つ現在など、推して知るべしである。
対して、その知人、ワイン大好き人間である。
その人との会話では、かなりの頻度でワインが俎上に上る。
まあ、お話だけならば別段かまいはしない。
ワインに付随する様々なウンチクなど、結構楽しんで聞いている次第である。
その知人曰く、近頃は随分と輸入物のワインの値段が下がってきたとの事。
まあ、確かに一時期、70円台まで円高が進んだ事もあった。
その頃の輸入ストック分が、現在の価格に跳ね返っているのだろう。
それと、ワイン投機熱の冷却という事も在るかもしれない。
今回の経済危機で、アメリカ、イギリス等の主要なワイン投機国から投機マネーがごっそり消えうせたというのも一因となりそうである。
兎に角。
その知人が先ごろ、ここぞとばかりにフランスワインを大人買いしてきたのだそうな。
普段ならば高くてとても手が出ないワインも、比較的安価に手に入り、その知人は大層ご満悦であった様子だ。
その中の一本に、フランスのなんちゃらいう村の格付けワインがあったというのが今回のお話のキモである。
その知人も、名前だけは知っていたが、まだ呑んだ事はないという代物であったらしい。
早速家に帰って、大量のワインたちを寝かせ、ガイド本などをあさって戦果の調査を行ったところ。
件の格付けワインに関して、ロバート・パーカーなる人物が
『なにも選んでこんなものを呑まなくても、ほかに呑むべきワインは世界中にゴマンとある云々』
というようなことを云っていた、というのである。
その知人は
「いや、それであの値段に関しても納得した」
と、苦笑いしていた。
知人曰く、ロバート・パーカーなる人物は世界でもっとも影響力の強いワイン評論家であるという。
多くの元売り業者や小売り業者などが、その評価如何によって価格を上下させるほどの人物なのだそうである。
ただ、その知人は
「たかが一介のワイン好きなおやじ弁護士にくさされただけで価値が暴落してしまうのでは、ワイナリーの人がかわいそうだ」
とも言っていた。
そのようなことどもひっくるめて、この弁護士さんが大嫌い、というワインフリークも結構多いのだそうな。
アメリカのもう一つのワインの権威、ワインスペクテイター(だったはず)という雑誌においては、そのワインは星5つ評価で4.5を獲得しているのだという。
また、日本の小売りの間でも
「値段も手ごろです。パーカーが嫌い、という人には是非お勧めします」
などという商魂たくましい向きもあるようである。
さて。
このお話を聞いて、このパーカー氏に大いに共感してしまったのは私だけであろうか?
共感、というより
「パーカーすげえ」
といった興味というのが相応しいであろうか。
実は当方も、これと全く同じようなことを言った事がある。
対象は、かのノーベル文学賞を獲得した日本人作家、大江健三郎氏の著作について、である。
ある知人に
「大江くらいは読んどきたいんだけど、どんな感じ?」
などと尋ねられて、つい
「あんなもの好んで読むほど人生の時間は長くないよ」
と、ごく正直に返してしまったのである。
文芸批評、などというものはまだしも理性と論理のある世界である。
当然其処には、批評する側の価値観と好み、というものも存在し、完全なる客観など不可能というものであろう。
そも、主観と客観は不可分であり、また、主観と客観との線引きすらも、人間の産み出す文章においては難しい。
であるからして、良い批評というのは、客観と主観というものが程よいバランスを保つ必要があると感じる。
主観過多では何が言いたいのかわからず鼻につく。
客観過多ではクソ面白くも無く無味乾燥な文字の集合体である。
素人読者でしかない当方にとっての大江健三郎は、主観的には説教臭くてえらそうで何様?といったところで、客観的には持って回った文章はあまりにくどすぎて先に読み進めさせる力が無い、また、その内容についても意義を考えられるほどに読める代物ではない、という、簡潔に言えば人生の時間云々、となる。
まあ、それはおくとして。
人間の味覚、というのは感覚であり、決して他人にはわからないはずのものである。
一口にしょっぱい、といっても、どの程度、どれほどの度合いのしょっぱさなのか?
同じだけ塩を入れた吸い物であっても、塩辛いという人間も在れば、塩が薄いという人間もあるだろう。
つまりは自分が感じるしょっぱさ、というものは、あくまで自分の物でしかなく、他人にそれを知ってもらう事も、他人の感じるそれを知る事も出来ないのである。
故に、いざ吸い物を作る段、自分持つ経験則と感覚に頼る以外なく、万人に程よい、おいしいというのはこれはもはや不可能であるといえる。
味覚やその他多くの感覚については、いわば完全なる主観の世界のことなのである。
殊、味覚についてはその度合いが大きいと感じる。
然るに。
そのような味覚の世界について、彼のロバート・パーカー氏はそれを臆面も無く世界に向けて発信する個人という事となる。
自身の鉄壁の主観を鍛え上げ、其処に自信と批判にめげぬ強靭な意思を持ってはじめて可能になる事なのではあるまいか?
この人においては様々言われ、またその言動に非難や批判はあれど、その一事において、凄まじい、と感じてしまうのである。
これがアメリカ人の持つパワフルさというものであろうか?
ただ、不幸な事は。
前述したとおり、市場的な価値を、彼の批評それ自体が持ってしまったことだろう。
果たして、彼自身がそうなりたかったのか、或いは市場がそのように祭り上げてしまったのかは与り知らぬが。
ひとたび利害が絡んでしまえば、彼自身がどうあれ、周囲が放っておかなくなる。
資本主義という名の魑魅魍魎が、その周囲を回り始めるのである。
批評とは何か?
当方が考えるに、それはただ其処にあるだけのものである。
発信する人間がいて、それを受け取る人間がいる。
発信された批評に価値を見出すのも、或いは無視するのも、受け取る側次第である。
読む人が読めば、大江健三郎氏の著作も、きっと素晴らしいものなのであろう。
冒頭において述べたパーカー批評に対してのある小売りの対応。
あれこそが良い見本なのではないかと考える。
知人は、いまは楽しみにワインが静まるのを待っているとの事である。
結構な事だ。
べっ、べつに競馬の予想が当たらなすぎて言い訳してるわけじゃないんだからねっ!
PR