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2008/1/13 人生における、雑感、ボヤキ、など。
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自分はどうやら徹底的に彼女のピンチに縁があるらしく。
彼女史上最大の危機のときも、発見する事になる。
おかげで嫌われっぱなしだというのに。

彼女が家にいつくようになって数年がたち。
自分が高校生のころであった。
彼女も幾度かの出産を経験し、女として脂ののり切った時期である。
出産のたびに我が家はおおさわぎであった。
このままでは家が猫屋敷になってしまうと危惧した父と母。
とはいえせっかく生まれた命、むげに殺すも我、忍びず。
せいぜい知り合いのツテをたどって飼い主探しに奔走したものである。
自分も学校などで
「猫は良いぞー、懐くと最高にかわいいぞー」
などと、懐かれた事も無いのに猫なで声で勧誘の日々。
その甲斐あってか、その事件がおきるまでの彼女の仔らは、無事、新しい飼い主の下へ引き取られたのである。

彼女の腹がずいぶんと大きくなってきたある日。
ふいっと姿が消えた。
それに関してはいつもの事、彼女の気の向いたところで出産をするのである。
が、このときばかりはいささか様子が異なった。
前述の通り、家には職業柄、幾つもの納屋が存在する。
現状では屋根の在る小屋は十ほどであろうか?
出産が終わると、そのうちのどこかから子猫の鳴き声がするので、どこで産んだかはすぐにわかるのであるが。
そのときばかりはいっかな待てども泣き声がしてこない。
さすがに心配になった我々は、虱潰しに各小屋をあたってゆく事になった。
が、普段整頓というものを知らぬ父の事、それぞれの小屋はまさに魔窟。
オイルの空き缶が無秩序に積み上げられていたり、工具箱がそこいらに放り出して積み上げられていたり、何が入っているのかわからぬダンボール箱が山になっていたりと、枚挙に暇が無い。
探索も畢竟、困難を極めることとなる。
探索初日は空振り、二日目も発見できず、じりじりとした日が過ぎてゆく。
そして三日目の朝、早起きして登校前に探索していた自分が彼女を発見する事になる。
奇しくもそこは、彼女が生まれた場所であった。
薄暗い材木の山の下、懐中電灯を当てて彼女の名前を呼ぶと、かすかながら応えの声。
材木の山を崩し、無事、衰弱した彼女を救い出す事に成功した。

彼女のいたところには死んだ子猫が二匹。
そして、彼女の膣の部分には、おそらく死んでいるであろう子猫のなきがらが頭だけ出ていた。
すべてを理解した自分は、ぐずる母の尻を引っぱたき車を出させ、彼女を動物病院へ連れてゆくこととした。
もちろん、実家の在る町には、動物病院などお洒落なものは存在しない。
ざっと調べたところ、存在するのは近場では自分の通っている高校の在る街である。
車で一時間弱はかかる。
朝っぱらから医者を電話でたたき起こし、すぐにそちらに向かう旨を告げ。
「診察は十時からです」
などとほざく医者をなだめすかして、最後はせいぜいドスの利いた声で脅しつけ。
制服に着替えて彼女をタオルを敷いたダンボールに入れ車に乗せ、病院に運び処置をしてもらう事が出来た。
思い出すだに、消えてなくなってしまいたいような蛮行である。
お医者さん、ゴメンナサイ。

役人のような神経質な面を想像していたお医者さんだが。
初老の気のよさそうな人であった。
無理を言ったにも関らず、麻酔の間、こちらの話を聞いてくれて。
お医者さんの提案で、処置と同時に彼女に避妊手術を施す事にした。
母は二つ返事で了承、こうして彼女は無事、命永らえる事になったのである。
…或いは、こちらの顔などもう見たくなかったのであろうか?
思い返したくはないが思い返せば、ただのヤクザのクレーマーである。
うわー。ほんと、すんません。

ここまで苦労させられたわけであるから、こちらの思い入れもそれなりであるのだが。
やはり彼女は懐かないまま。
いまではいいおばあちゃんになって、家で寝たり起きたりの生活をしているようだ。
正月などで実家に帰ったりすると、たいてい姉夫婦なども来ている。
姉夫婦には年子の女の子が2人いるので、彼女らがいるときは大抵隠れているのだが。
彼女らがいなくなると、のっそりと薪ストーブのそばにきて寝そべる。
自分がいてもお構いなしなので、どうやら年月とともに彼女もずいぶんと老成した事がわかる。
ある意味、枯淡の境地、とでも言おうか。
そんなときは彼女を見つめ
「いいか、俺はな、お前の命を何度か救ってやった大恩人なんだよ。わかってんのか?」
などと話し掛ける。
だが、彼女は煩わしそうに一声鳴くと瞑目し、ストーブのそばに大の字で寝そべるのみだ。
そんな姿を、実に好ましく思う自分である。

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仕事から帰ってきた父が、それを発見することとなった。
路上に打ち棄てられた彼女と、それに寄り添う子猫を、である。
正直、あの光景は頭の片隅にこびりついて離れない。
今でも折に触れ、当時の光景がよみがえる。
そこを離れようとしない子猫をやむなく引き離し、父に家まで連れて行ってもらった。
自分は敷地内の池のほとりに穴を掘り、彼女をそこに葬った。
畜生とはいえ、軒を貸す店子である。
袖振り合うも他生の縁、これくらいしてやってもバチは当たらぬであろう、と。

そのようにして当家にいついてしまったのが現在の飼い猫である。
幸いにも、固形物を食べられるほどには育っていたので、飼育自体にはそれほど手は掛からなかった。
当初は鳴いてばかりいたものであるが。
父の献身的とも取れる偏愛っぷりもあってか、それも次第に収まっていった。
おかげで自分や母にはさっぱり懐かなかったのであるが。
まあ、それはよしとしよう。

ちなみに、この子が女の子だと判ったのは家に来てからである。
身体的特徴は、母親と全く一緒。
母親の美人の血を良く受け継いでいたようだ。
まあ、飼い猫という性質上、性格は多少、おっとりとはしていたようだ。
近所の野良達の抗争の火種になったとかならなかったとか。
魔性の女である。

飼い猫とはいえ、彼女の野生の血は消しがたかったらしく。
一年において半分は家、半分は外という生活を送っていた。
何日か帰ってこない日もあって、母などはよく心配していたようである。
ふらりと帰ってきたと思ったら、顔を倍くらいに腫らしてぐったりしていた時もあった。
どうやら何らかの勝負に敗れたらしい。
そういったときの手当ては大抵、自分の仕事であった。
暴れる彼女を押さえつけ、傷を開いて膿を出し。
消毒液を使った時など、ギャンギャンわめいて実に恨めしそうにこちらを見ていたものである。
あと、飼い猫の良くあるイベントの一つ。
木に登って下りられなくなるという奴、彼のイベントで救助を担当したのも自分である。
当方としては助けているつもりであっても、どうやらあちらにとっては大きなお世話であるようで。
彼女は、遂には自分に懐くことは無かった。
別段、嫌われてはいないと思うが、間違いなく警戒はされていたと思う。
あいつウザい、位であろうか。十分嫌われているような気もする。

彼女にとっての家庭内の地位は、おそらくはこんな感じであろう。
父(親または主君)→彼女→母(空気または自動餌出機)→自分(敵)

先ずは父。
これは絶対的な存在である。
物凄まじいほどの懐きッぷりであった。
幾つか例をあげるならば。
父の帰宅の時間になると、外に出てお出迎え。
家にいないときも、その時間にはほぼ毎日のように、出迎えていたらしい。
その後は、父の後を、まるで忠実な従者か何かのようについて歩く。
休日、菜園の世話などを父と共にしているときも。
菜園の縁に座ってじっとこちらを眺めている。
退屈になると、雀や野鼠などを獲って来て誇らしげに父の前に持ってくる。
献上品であるのか、或いはほめて欲しいのか。
とにかく、まるで犬のようである。
ここまで生きてきて、あんなに猫が懐く姿を見たことがない。

次は母。
これはほぼ空気である。
母は、もともと獣が嫌いであった。
いや、どうなのだろう?
若い頃は自身、嫌いであると公言して憚らなかったはずだが。
彼女が家に来てからは、そんなそぶりは毛ほども見せない。
何かというと、おかしな、甲高い声で、しかも赤ちゃん言葉で彼女の名を呼び、話し掛けている。
正直こちらとしては、見ているのが辛かったりする。
何のプレイですか?
そして彼女はそんな母にどこまでも冷淡である。
基本、無視である。
面倒になると、振り返りもせずにその場を去る。
少なくとも、積極的にかかわろうという気配は皆無である。
ただ、どんなことにも例外はある。
時折、空腹時には、ひたすら母の足元にアタックを繰り返す彼女の姿を見ることが出来る。
そんなときも母は、まんざらでは無さそうである。

そして自分である。
考えれば、彼女の嫌がることばかりやらされていたような気がする。
シャンプーも、自分の役目であったし。
敵認定も致し方なしといったところか。
こちらはもっと仲良くしたかったのだがなあ。
そういえば、しょっちゅう嫌がらせは受けていたような気が。
実家にいた当時、自分は二階の部屋に住んでいたのだが。
階段と階段の継ぎ目に、踊り場のようなものがあった。
時たま、夜になると、彼女がその踊り場にやって来て
「にゃー」
と鳴くのである。
当初は
「あれもようやく俺の良さがわかったか」
とか思い、ホイホイ部屋を出て行くのであるが。
こちらの顔を見ると、脱兎の如く逃げるのである。
いや、意味がわからんから。
そうしてしばらくするとまた
「にゃー」
である。
放置すると延延と鳴き続けるし。
かといって部屋を出て行くと逃げるし。
一度などは、その繰り返しの何度目かでブチ切れて、執拗に追いまわして捕獲し、そのまま外に放り出したことがあった。
それが、自分と彼女の亀裂を決定的なものにしたような気もする。
とにかく、敵っぽい感じであった。

猫が、好きである。

徒歩での移動中など、見かけると思わずにじり寄ってしまうほどである。
基本、連中は触らせてもくれぬのであるが。
大概は間合いを測られ、一定のプライベートゾーンを突破すると、余裕を持って建物と建物の間隙や草むらの中、或いは車の下など、人の入れないところ、或いは追いかけることは出来ても、断念したくなるようなところへ逃げ込んでしまうのである。
そしてひとしきり逃げた後、ゆっくりと振り返ってこちらを観察する。
恐いもの見たさであろうか?
好奇心は猫を殺す、という言葉はこの辺から来ているような気がする。
なんとも、人間的なしぐさに感じる。
猫から言わせれば、人間が猫的である、ということになるのであろうが。

プライベートゾーンは個体や時々の状況によって異なる。
ごく稀にであるが、飼い猫であり、警戒心の薄い個体であり、且つ空腹時などはこちらへ寄って来て足元にぶつかってきたりする。
それはそれでこちらとしては彼(彼女)の将来を思って不安になったりするのだが。
まあ、今時、三味線の材料を求めて町を徘徊するアタッシュケース持った黒っぽい人などそうそういないであろう。
などと考え、ひとしきり遊ぶ。
至福のひと時である。

自分の実家では、一匹の猫を飼っている。
彼女がわが家の一員になったのは、自分が中学生の時である。
ということは、もうかれこれ15~6年にもなろうか。
もうすぐ尻尾も三ツ又に割れそうではある。
わが家の敷地内に彼女の母親が、いつからともなく住み着いたことに端を発する。
彼女の母親は誇り高き生粋の野良。
コゲ茶虎縞、鉤尾で、金緑の瞳、いかにも野生動物らしいしなやかさと精悍さをもつ、なかなかの美人であった。
家業故、広大な当家の敷地を、縦横無尽に駆け回って獲物をハントする姿が度々目撃されている。
近くの叢から、野鼠や雀を咥えてひょっこり顔を出す。
自分もそんな姿に何度か出会っている。
彼女は決して人には懐かず、当家に於いては居候の分際で孤高の存在であった。
いや、居候というのは失礼か。
彼女は決して人間の住居を冒さなかった。
彼女にとっては天と地がわが家だったのであろう。

彼女がわが家の敷地内に住むことが、緩やかながら当たり前の日常になってきたある日。
ふと、彼女の姿が見えなくなった。
家族(といっても当時は、父母と自分のみであったが)はそれなりに心配していたように思う。
そんな日が数日続き、ある日、敷地内に幾つかある納屋の中から、何かの甲高く、そしてか細い鳴き声のようなものが聞こえてくるようになった。
父と自分は、声のする納屋のなかを懐中電灯片手に探し回り、一山の材木の下、蹲る彼女を発見した。
彼女の鳴き声で無いとすれば、答えは一つである。
薄暗い材木の下、出産したのだ。
われわれ親子もとりあえず一息である。
頻繁に訪れると、居場所を変えてしまう恐れがある。
とりあえず当面、餌だけ放り込み、様子を見ることとする。

彼女が再びわれわれの前に姿をあらわした時、一匹の子猫を咥えていた。
彼女と同じ毛色の、彼女そっくりの愛らしい子猫であった。
猫の出産で、一匹のみというのはあまり聞いたことが無い。
確認したわけではないが、子猫の鳴き声で探し出した時も、複数の鳴き声はしなかったように思う。
どうやら他の数匹は死産であったようだ。
とまれ、彼女はまた、当家の敷地内を、子猫を連れ、闊歩するようになったのである。
相変わらず、こちらの事はガン無視か、或いは警戒して近づいてはこない。
子供などを連れているときは、プライベートゾーンが格段に広くなるというのは聞いたことがある。
しかし、産後、結構食い物放り込んだりしたはずなのだが。
まあ、彼女にはあまり関係ないか。
なにせ、孤高の女だし。子連れだけど。

われわれと彼女にとって、再びそんな緩やかな日常が戻りつつあったある日。
不幸は突然に襲い掛かってくる。
彼女が、家の前の車道で、車に轢かれてしまったのだ。
残念ながら、彼女は即死であった。
出産より、まだ数ヶ月も経っていない、とある初秋の日の夕刻のことであったと記憶している。

過日、機会あり、原作 藤沢周平、監督 山田洋次の”武士の一分”を見た。
中古屋で千円チョイで売られていたものだ。
近所のオバチャンが以前
「今日見に行ってきたんだけどね、面白かったよ」
とか言っていたのを思い出して、つい、手を出してしまったのだ。
ひどいものであった。
勘弁して欲しい、本当に。

自分は、藤沢周平氏が大好きである。別格である。
自分内では一段、高いところに鎮座ましましている。
それがあんなことになるなんて…。
陵辱といっても過言ではあるまい。
彼の監督、最近精力的に氏の作品を映画化しているようだが。
これを見ただけで、他の映画化作品なぞ意地でも見るか!という気分にさせられてしまった。

池波正太郎氏や柴田錬三郎氏などは、自分の作品が映像化されることを随分と嫌ったそうだ。
池波氏は、縁故を頼ってきたテレビマンに、やむなくドラマ化にOKを出したそうだ。
それでもやはり、出来ればこれ以上は作って欲しくなかったそうだ。
柴田氏にしても、池宮彰一郎氏がかつて映像の仕事をしていた当時、何とか映像化のお墨付きをもらおうとして苦労された話が氏のエッセイに出てくる。
曰く、すごい迫力であった、と。

確かに、武士の一分を見る限り、作家が映像化を嫌がるのも、分かる気がする。
おれはこんなもの書いていない、と。
自分が生み出したものが他人の手によって切ったり張ったり削ったり装飾過剰にされたりする。
仕事に矜持をもつ人であれば、その嫌悪感はまた格別だろう。
以前、田中芳樹が2次創作物にブチ切れたという話を聞いたことがある。
ケツの穴のちいせえ野郎だ、とか思っていてのだが。
こう考えるとそれもやむなしか、と考え直してしまう。

そも、どだい無理な話なのだ。
作家達は、映像にするために作品を書くわけではない。
自分の理想や考えを少しでも形にすべく、文章にするのである。
それに魅了された他人がどれほど知恵を絞って全能を傾けても。
下地となった原作を超えることなど出来ないのである。
文章、というものは。
嫌が応にも、読み手の想像力を掻き立てる。

自分が思うに、実在する美人の女性というものは、想像上における理想の女性というものを決して超えられないのである。
個々人には各々、嗜好というものがある。
背の高低、胸の大小、髪の長短、etc、etc…。
文章であれば、それを表す言葉は一言”美人”であればよい。
それだけで読者はすぐに、自分の理想の美人像を思い描く。
しかし、映像になってしまうとどうしても美人に一人の役者が配されることとなる。
その時点で既に、かけ離れてしまうのである。
池波氏の鬼平犯科帳の一篇に、”すごい奴”という登場人物があらわれる。
井関録之助の暗殺を請け負った殺し屋であるのだが。
すごい奴という以外、名前、顔立ち、体型にいたるまで、パーソナルデータの全てが描写されていない。
これなどは実に小説的な技法であるといえる。

逆に、映像的なスピード感のある文章をかかれる人もいる。
高野和明氏の文章は実に映像的で、エンターテイメントの鏡といってもよい。
余韻も残らないし、あとも引かないが。
それはそれでいいと思う。
しかし、自分に於いては、藤沢周平氏といわれると、どうしても原作ありきになってしまう。
原作無しの、映画の単体としてみれば、まあ、見られなくは、無い、のかな?
せいぜいがギリギリ許容範囲といったところであるが。

今後、藤沢氏原作の映画を見ることなどもう無いであろうが。
出来うるならば、これ以上原作を汚すのはやめてもらいたいものだ。
最近では、たそがれ清兵衛、蝉しぐれ、隠し剣鬼の爪なども映画化されているようであるが、どれも良い作品ばかりである。
ファンの方々には申し訳ないが、どうにも腹が立って仕方が無いのである。

今回の丸紅騒動で思い出したものがある。
タイトルはもはや忘却の彼方であるが、星新一氏のショートショートの中の一篇だったように思う。

一人の男がいた。
彼は悪人である。
いずれ、会社の金を持ち逃げしてやろうと思っている。
一生涯、あくせく働いたところで、彼の手に出来る生涯賃金などタカが知れている。
ならば・・・というわけである。
しかし、悲しいかな、彼は一介の平社員である。
したがって、持ち逃げできる金額もわずかなものでしかない。
このままではいけない。
彼は必死に働いた。
他人の嫌がる仕事も進んで引き受けた。
毎日のように残業もした。
畢竟、周囲から一目置かれるようになる。
昇進もし、責任ある仕事も任されるようになった。
彼は内心愉快に思っている。
「ここで俺が会社の金を持ち逃げしたら、俺のことを買っている連中はどんな顔をするだろう」と。
同時に「まだだ、もっと周囲の信頼を得なければならない。そうすれば、俺の持ち出せる金も増える」と、気を引き締めるのである。
彼はその後も猛烈に働き続けた。
新しく出来た部下の相談にものってやった。
上司の紹介でしたくも無い結婚もした。
これも全て周囲の信頼を勝ち得るためである。
周囲が彼を信頼し、昇進すればするほど持ち逃げできる金額=彼の財産が増えるのだ。

そして十数年後・・・。
彼は摩天楼の最上階で、とある経済紙の記者のインタビューに答えていた。
「あなたは史上最年少で御社のトップとなられたわけですが、その秘訣は何ですか?」
「いや・・・。私はただ、必死にここまで働いてきただけですよ」
彼は思った。本当のことなど言えるわけが無い、と。

なんとも氏らしいストーリーである。
誰かが言っていた。
「古今東西、人間の原動力などというものは所詮色と欲である。肝心なのはそれをいかに隠蔽するかだ」と。
強すぎる欲望を持つものは、強靭な精神力で持ってそれを上手に隠さねばならない。
隠し切れぬものは犯罪者となり、隠せるものは成功者と成るのかもしれない。
平々凡々な自分には窺い知れぬ境地ではあるが。
こんなことを思うと、なにやら少しだけ、物悲しい気分になる。



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