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2008/1/13 人生における、雑感、ボヤキ、など。
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・過客(かかく)

 

月日は百代の過客にして行き交う歳もまた云々。
おくのほそ道である。
かきゃくとも読むらしいこの言葉であるが、この間珍しく目にしてしまった次第である。
なかなか、見ないよね。
そういえば過客って、なんなんだろうな?
言葉どおりに読めば過ぎるお客さん、来客などと同じような意味なのではと思っていたが、考えているだけではわからない。
ならば、いっちょ調べてみっか、と。
早速いってみようか。


曰く。


①来訪した人、来客。
②ゆききの人、旅人。奥の細道「月日は百代の─にして」


そのまんまである。
つまり、来客の古臭いというか気取った言い方をすれば、過客ということになるのだろうか?
あまり一般的に使われる言葉でない事は確かなようである。
ちょっとした書き物などに使ってみて、己のボキャブラリーを誇示するにはいいのではあるまいかな?
来る客も客である限りは必ず過ぎる客であるということか、逆説ながら巧みに真理をついた言葉であるとも取れるなあ。
来客、過客、一期一会を大切に、だ。

 


・惻隠(そくいん)

 

これはよく見る言葉である。
惻隠の情といえば、何かを憐れむ心というように認識しているが、果たして本当のところはどうなのだろう。
漢字だけ見ても何のことだかわからんよねえ?
こういったものはテッテ的に調べてみるのがよろしいな。
ひょっとしたら、当方の全く知らない意味や由来を隠しているかもしれないし。
そんな風に考えると、なかなかに楽しかったりする。
ワクワクですよ。
それでは下調べといこうか、広辞苑で。


曰く。


〔孟子公孫丑〕 いたわしく思うこと。あわれみ。


とある。
それ以外には全く触れられていない、実に簡潔なものである。
まあ、当方の認識が正しかったことはいいとして。
この惻隠と言う言葉に関しての成立などの解説が一切無いというのがどうにも気にかかる。
果たして、説明するまでもないような常識的なことなのか。
さっぱり見当つかぬ当方としては納得のいかぬところである。
というわけで、少しばかり本腰入れて調査してみようか。
では、ここに取りい出したる論語・孟子であります。
まずは簡単に孟子というシロモノのことを簡単に。

孟子とは、宋代朱熹以降、孔子の言行録である論語と並んで四書の中に数えられる、中国戦国時代初期に活躍した儒者、孟軻の言葉、およびその弟子達との問答を集めたものである。
所謂儒教というものの大事な経典であると言える。
当然、わが国の文化にも多大な影響があり、例えば五十歩百歩などの言葉はこの孟子の中の言葉である。
さて、そんな孟子の中の一節に弟子である公孫丑との問答がある。
これは、この孟子と言う言行録の指し示す大きなタームの一つ、性善説を示す一節である。
惻隠、と言う言葉をここから捜すと、まさに性善説の提示の根幹にあたる記述にぶつかった。
抜き出してみようかな。


今人乍見孺子将入於井、皆有怵惕惻隠之心。


これは現代文に読み下せば

いま、仮に人が、幼子が井戸に落ちんとするところを見れば、たちまち憐れに思って助けようとするだろう。

といったところである。
まあ、助けようとする云々というくだりは当方の作りだが、大体ニュアンスは間違っていないと思う。
つまり、井戸に落ちそうな子供を見て瞬間的に助けてしまうのは、功利もなにもなく人間がもともと善なる心をもっているからだ、ということを孟軻さんは言おうとしているわけである。

さて、ここで大事なのはこの”惻隠之心”という言葉の使われ様である。
ううむ、どうやらこの時点において、惻隠という言葉は熟語として成立している様子である。
ならば確かに、成立や起源を遡るには、もっと古い資料からこの言葉を捜して、いつごろ成立したのかまで調べなければならないことになる。
それは流石に無理だなあ。
よし、それではこの言葉、漢字の側面から考えてみようか。
まず惻隠の惻からである。
新兵器、漢字辞典の『全訳漢字海 第三版』さんに出張ってもらおう。


曰く。

【惻】 (形容詞として)悲痛な様。受け入れがたいほどに痛ましい。
    (動詞として)同情する。不憫に思う。憐れむ。


とまあつまり、この惻という字だけでおおよそ惻隠の意味を満たしている様子である。
さらにはこの漢字辞典には惻隠之心についての解説も載っている。


曰く。

他人の不幸な状態を憐れみ同情する心のこと。仁(儒教における最高の徳・人道の根本とされる仁徳)の本源とされた。


とある。
なんだ、広辞苑君より詳細な解説じゃまいか!
恐るべし、漢字海。
ついでに隠の字も調べてみようか。
・・・って、うわ、スゲーいっぱいある!
まあ、面倒がらずに引き写して行くか。


曰く。

【隠】【隱】 

(動詞として)
①かく─す。かく─れる。ひそ─かに。身を隠す、こっそり隠れる。俗世間を捨てる。

②悲しむ。あわれむ。いた─む。

③推し量る。思う。

④灯火や火を消す。

⑤こまかく調べる。詳しくはかる。


(形容詞として)
①隠遁して仕えない様。

②困窮した様。まずしい。

③威厳ある様。

④微妙な様。かすか。

⑤穏やかな様。


(名詞として)
①かすかな道理。奥深い真理。

②隠棲する人。

③なぞなぞ。

④低い塀。

⑤古琴にほどこしてある飾り。


・・・とまあ出てくるわ出てくるわ。
隠一文字でこんなに意味があるのか。
漢字と言うのは実に奥深いものだなあ、実際。
例えば、形容詞的用法の”困窮したさま”と”威厳のあるさま”なんてえのは全く逆に感じるのだが、どんなものだろうね?
とまれ、今回の惻隠に関しての意味は、動詞的用法の悲しむ、いたむというところであろうな。
つまり、惻も隠も、何かを悲しむ、悼むという同じ意味の漢字であるということだ。
ということは。ここまで調べるまでもなくごく当たり前の意味だったと言う事である。
うーむ・・・。


というように、調べてみると至極当然の結果の様に感じるが。
まあ、通常両方ともにあんまり使う機会もないし、あまつさえ惻と隠と言う漢字にそんな意味があろうとは知りもしなかった当方である。
全くもって完全に、イグザクトリー知りませんでした、である。
ふむ、何かを学ぶ、というのは楽しいものだ。
これでまた一つ賢くなった、かな?
それでは今回は過客と惻隠、この二つまでということにしよう。
また次回をお楽しみに。
 

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朝から細かな雨がしとしと降る、ここ札幌である。
北海道への物流はどうやら東北地方で滞っているらしく、雑誌やその他食品雑貨など、東北以南から貨物列車やトラックなどで入ってくるものはほぼ全滅の有様である。
ここ北海道、もともと食糧基地だけに、すぐにどうこうということは無い様子だが、それでもコンビニ、スーパーなどの売り場が寂しいのは致し方なきところか。
あちらでは原子炉が爆発したり、三日以内に震度6程度の揺り返しが70%の確立で起こるとか、洒落にならん状況が継続中の様子だ。
それに比べれば売り棚の寂しさなど、かわいいものである。
偽善とは理解しつつも、近所のコンビニで千円ほど募金をしてきた当方である。
残念ながら当方にはこれっくらいのことしか出来ないのだ。
ご勘弁願いたい。
これでコンビニの店主に飲まれていたら嫌だなあ、なんて。
こすっからいことを思わず考える、概して普段募金などしない人間である。


現在、J・P・ホーガンのあまりにも有名な作品
『星を継ぐもの』
を読んでいる。
まあ、万夫不当のSF嫌いな当方であるが、これはいっぺん読んでみたいと常々思っていた作品である。
それがこのたび。創元SF文庫の読者投票で第一位を獲得したらしく、駅横の紀伊国屋書店で平積みされていたのを、読書に飢えた狼状態の当方の視界をよぎった次第だ。
まあ、作者としてもSF界としても、記念碑的な作品であるこの星を継ぐものだ。
果たしてどういった読み味であるのか、そして翻訳版としてはやはり気がかりなのが翻訳の腕そのものはどうなのか、なかなか楽しみであったのだが。
現在300ページ分の50ページ程度進み、場面としてはハント博士の前にチャーリー(死体)が出てきたところであるが、これがまたなかなかに面白いのである。
さすが、SFの金字塔。
あまりオタっぽくもなく、マイ理論も暴走を起しておらず、何とかかんとか理解できる範囲に収まっているように感じられる。
まあ、まだまだこれからであるが、この調子で進んでいったならば、生まれて初めて面白いと思えるSFに出会ったと、胸を張って言えるようになるかもしれないな。


さて、前々回あたりだったか、桜餅の話をした例の和菓子ショップであるが、今週末ちらりとのぞいたらまだ桜餅であった。
当然焼き皮のもありで、早速いくつか購入して職場で振舞ったら、これがおおむね好評であったとか。
やはりたまにはこういったちゃんとした菓子がいいなと。
そんな風に喜ばれたようである。
持っていった当方としても大いに面目を施した格好である。
よかったよかった。
それにしても、どうやらしばらくは桜餅期間である様子だ。
時期的に一時的なものかと思ったが、どうやらそうでもないようである。
ちょくちょく顔を出して、また美味い桜餅にありつくのもいいだろう。
和菓子のある生活である。
いいものだな。
 

・・・生きてっか?
ようやく自宅回線からネットに繋がった当方だ。
全く関係ないように思えた札幌であったが、こんなところに影響が出ていた様子である。
競馬も今週はお休みということで、予想もトんでしまった。
仕方がないな。
ここを見てくれている数少ない皆さんの無事をお祈りする以外、できることのないのがやるせないところである。
ちなみに、札幌あたりは震度3~4といったところだったようだ。
当方はといえば仕事で徒歩移動中「ヲヤ?ふわふわする、めまいかな?」と思った程度であった。
ただ、建物の中にいた人は結構ゆれたとの証言である。
近所のコンビニのおばちゃんが「いやいや、店の中も結構大変だったよ」といって笑っていた。
何にせよ、笑える事は結構なことである。


錯綜する情報が整理されるに従って、改めて今回の被害の大きさに胸が塞ぐ思いだ。
とは申せ、世界中の人々が、理由はどうあれ援助の手を差し伸べ心を砕いてくれるのは非常にうれしく、有難く。
世の中と言う奴の、まだまだ棄てたもんじゃないなと思わせられた今回である。
やはり人間、情けは人のためならず、だ。
善根施すべし、だなあ。
被害に遭われた方々にとっては、勝手でうっとおしい言葉に聞こえるかも知れないが、ご容赦願いたい。
 

冷えるなぁ。
雪も降るしな、週末は多少暖かかったが、今週入ってからはこんな日が繋がっているのである。
まさしく三寒四温である。
温い、とおもえば寒くなり。
春への通過儀礼だと思うしかないか。
春と言えば、最近はタイトルに『新生活』とついた広告メールが多くなったな。
大学なんかの合格発も本番だし、ここ北海道においては季節の上では足踏みの春も、暦の上では順調に歩度を進めているようである。


昨日は啓蟄、そして先週に何よりも暦の上での春を感じさせるイベント、桃の節句があった訳であるが。
実を言うと当方、あの”桜餅”と言う奴が大好きなのである。
とても。
いいですよね、桜餅。
もっちりつぶつぶの道明寺であんこ包んで、それを包む桜の葉の塩漬けはしょっぱさも香りもベリグーであります。
たまらねえな、ハアハア。
というわけで今年も桃の節句とは全く関係の無いおっさんである当方も、一人家でコンビニで買ってきた桜餅を山積みにして玄米茶をすすりながらひなまつりパーティーと洒落込んだわけである。
立派な桜餅ジャンキーの出来上がりだ。
まあ、第三者がみれば相当に”うわー”な光景ではあるな?
通報されても文句は言えまい。


さて、そんな幸せな桃の節句も終了した先週末のこと。
近所の本屋を冷やかした後、ふらりふらりと散策していた暇人な当方である。
そんな折、以前から一度入ってみようと思っていた和菓子屋の前を通りかかった。
そう、以前から気にはなっていたのだが。
なぜに入らなかったかといえば、当方の動線からいささか外れていて忘れていたことが一つ、もう一つはそのお店、なかなかに入りづらいアゥラを醸していたと、その二点が理由として挙げられる。

入りづらい。
これはごく個人的な定義の問題である。
おっさんの癖に案外シャイなところのある草食動物である当方、入りづらいといえばまあ、近頃流行りのOL御用達みたいな、どっから入ったらいいかわからぬようなオサレ喫茶店なんかもう絶対無理だよな?
このあたりが筆頭だろう。
しかしこの問題の和菓子屋、そんな感じでは全く無い。
なんというか、古びている。
歴史を感じさせるとかそういったものではない。
寒々しく、しみったれた戦後昭和演歌な世界と言えばいいだろうか。
なんともやりきれない空気が漂っているわけだ。

気まぐれでそんなお店に首を突っ込んだ当方である。
甘党バンザイ!だな。
店内は当然電気なんかついていません。
薄暗い。そして寒い。
暖房も入っていないようだ。
店内の床はといえばコンクリート打ちっぱなしの三和土みたなっていて、寒々しさがさらに倍である。
そして店内には当然のようにだれもいない。
・・・・本当に営業中なのか、ここ。
ちょっとだけ心配になったとか。
ざっと店内を見回すとなんだか見たことの無い饅頭みたいな菓子や個包装されて正体のわからない何かがズラリとケースに入って並んでいる。

と、「いらっしゃいませ」いいながらおばあちゃんが出てきた。
軽く「どうも」と会釈をし、商品を吟味してゆく。
まあ、一見さんである、大福でもあればいくつか買って店のあたりをつけようと見回すが、どうやら大福は置いていない様子。
代わりといってはなんだが、桜餅を見つけた。
をや?桃の節句は過去の話だったような・・・。
まあいいや、ジャンキーの血が騒いだ。
コンビニなんかで扱っているものよりぽってりしており、一回り大きいようだ。
桜の葉の塩漬けも一枚一枚しっかりしており、変にねじけたような感じも無く、いいものを使っているのが伺われる。
「じゃあ、この桜餅を三つ、それとそちらのすあまかな?それを二つ」
と、おばあさんが
「桜餅は焼いたのと普通のがありますが、どちらになさいますか」
とか言う。
妬いたの?
誤変換が頭をよぎる。
やきもちさんか、こいつぅ!
イカレヤロウである、病と言っていいだろう。
とりあえずこっちへ帰ってきて、焼いたの?と首を捻る。
桜餅の焼いたの、聴いた事がない。
と、ケース内の桜餅の隣りにあるなんだか薄い皮みたいなのにあんこを挟んだ形状のものをおばあさんが指差して。
ほーほー、それが”焼いたの”ですか。
「それじゃあ、そっちの”焼いたの”とやらを赤白一つずつ、そして普通のやつを一つ、あとすあま二つで」
これで600円程度の買い物である。
まあ、確かにコンビニなんかに比べるとちょとだけ高いか。
無駄遣い大好き人間の当方にとっては、むしろテンション上がるんだがな?


さて、買った桜餅とすあまを抱えるように帰宅して。
さっそく煎茶を入れて焼いたのとやらにチャレンジしてみた。
おっ、桜の葉のおかげか確かに桜餅ではあるが、さっくりしていてなかなか美味い。
中の餡も一味違う、やや甘味が強くて懐かしい味だ。
普通の桜餅もやはりこの間食ったコンビニのやつよりもすっとおいしいな。
道明寺がよりもっちりして、歯を押し返す感触が実に心地よい。
すあまもこれを食べるとそのあたりのスーパーなんかで売ってる量産モノはちょっと喰えなくなってしまいそうだ。
とまあ、総合的に非常に満足できる味であった。
後日、同僚にこんな店があったよー、と主に”焼いたやつ”について報告すると。
「へー、珍しいね。北海道に焼いたの置いてある店なんかあるんだ」
と返された。
どうやらメジャーな存在らしいが、このあたりではなかなかお目にかかれないらしい。
どうやら彼も心惹かれたようだが、今週まだ桜餅売ってるかな?
売ってたらいくつか買って職場に差し入れるのもいいかな、と。
そんな風に新しくテリトリーに入った店を自慢する算段である。

 

弥生賞は全くもってカスりもしない有様である。
ダメだなあ、本当に。
しかし、あのプレイという馬はたいしたものだ。
あのしぶとさは異常である、それでもまだ1勝馬なんだがな?
案外スローに嵌れば単騎なら逃げ切っちゃうんじゃなかろうか、などという甘い夢を見てしまいそうな勢いだ。
やはり上がり勝負となれば勝てないのは致し方ないところ、行くならきっちり行き切ったほうが結果は残りそうな感じがあるな。
そしてやっぱりやっちったカッチー。
いやいや、君はそういうキャラですよ?
なんだかんだで3着ゲットのデボネアも、よくわからんが怖いところか。
当方の本命ショウナンマイティは4着まで、対抗オールアズワンは馬群に沈んでしまった様子である。
本番まで変わってくるかどうか、巻き返しに期待したい。
それにしてもこのままではまた年間収支が目も当てられない結果になりかねないのさ。
切ないなあ。
というわけで、負け犬ワイド収支も-1280円。
負けっぱなしですな。


先週末、食材や雑貨などを買い込みに、近所の東●ストアへと出向いた当方である。
まあ、男の買い物であるからな、非常に大雑把で、会計で5000円オーバーなどということがザラだったりするわけで、実に困った人であると常々感じている次第だ。
しかも徒歩なのになあ。
体のいい筋トレ状態であると言える。
そんな豪快な買い物の中で最も散財だったのが”豆腐”であった。
豆腐、好きなんだけどな。
実際スーパーなんかで売ってる豆腐って、ろくなものじゃないというのが当方の認識である。
安けりゃいいってものでもあるまいに、一丁60円とかこれ本当に大丈夫なのかと製造元に問い合わせてみたい衝動に駆られる。
いかに豆腐が庶民の食い物であれ、安かろう不味かろうな水っぽい豆腐なぞ喰いたいとも思わない。
もっとまともな豆腐はないのかと、日夜美味い豆腐を求めて試行錯誤の日々である。
そして、東●ストアの売り場の一角で、それを見つけてしまった。
商品名”週末だけの十勝正直村の特別絹豆腐”というものである。
何とも仰々しいことこの上ない。
一丁250gの豆腐のお値段が300円ほどであった。
いいねいいね、こういう買い物はテンション上がるよね。
早速一丁だけ求めて、ホクホク顔で荷物を引きずりながら帰宅である。

さあ、果たしてどれほどのものか。
本当に美味い豆腐は、そもそも薬味や或いは醤油すらいらないものだとの持論の持ち主である。
とりあえず、豆腐の本来の味を見るためにも、なにもつけずに頂くこととする。
正直、それほど期待していたわけでもなかったが。
確かに、一丁300円は高いが、それでも料亭などの特別あつらえのに比べれば安いものだし、十分普段使いできるレベルである。
それが、一口食べて驚いた。
まずガツンとくる大豆の香り、そして口に広がる甘さ。
本当に、薬味など無くてもどんどんいける美味さである。
一丁まるまる、そのままかき込んでしまった。
これはいいもの見っけたな。
なかなか、量産モノの市販品で、このレベルは無いだろうなという塩梅だ。
週末の楽しみがまた一つ増えたといったところである。

話は変わるが、司馬遼太郎先生の作品では、当方は『花神』がいっとう好きである。
主人公は幕末に彗星の如く現れた天才軍師、大村益次郎。
このMas大村、豆腐が大好きなのである。
この小説の中にも、酒引っ掛けながら豆腐をつまむ彼の描写が時折出てきて、その姿を想像すると、なんともいえないしみじみとした気分になるのである。
そんな中で、戊辰戦争で従軍した某士官(確か、山田某だったような気がするが)を自宅に招いてもてなす描写があった。
その士官、苦心惨憺な前線暮らしから帰って、さぞかし珍味佳肴のもてなしがと思いきや、座敷に入ると豆腐が一丁皿に鎮座ましましてござる。
Mas大村「これだけです」と。
ぶち切れたのはこの士官である。
「あんまりといえばあんまりな仕打ちだ、ここまで泥水をすするような前線暮らし、今日は久々の娑婆でさぞや歓待されるだろうと思いきや ト ウ フ ダケデスカ?」
すると今度はMas大村が逆ギレる。
「お前豆腐馬鹿にすんな!?いいですかー?そもそも豆腐とは完全栄養食品でありまして、この豆腐を軽んじるということは云々」
完全に酔っ払いの説教モードである。
Mas、大概変人だが、それだけではなくさぞかし豆腐が大好きだったのであろう姿が偲ばれる。

さて、ここで疑問が浮かぶ。
果たしてこの時代の豆腐は、どのようなものだったのだろうというものである。
技術革新とやらで、うっすい豆乳に凝固剤ぶち込んで無理やり固めた現在のまがいもんな豆腐と、どちらが美味かったのだろうと。
まともににがり打って固めた豆腐なら、作り方がどうあれ少なくとも現在の豆腐よりは遥かに濃厚であったはずだが、どうなんだろう。
飽食の時代と人は言う。
確かに、かの小説の時代に比べ、遥かに豊かな食生活を送っているであろう我々である。
しかし、こと豆腐に関して言えば、むしろその時代のほうが口はおごっていたのではなかろうかと。
日常的にまともと呼べる豆腐が食えた時代である、何ともそこだけは非常にうらやましいと感じる当方は不遜であろうか?
そんな、まともな豆腐を探すだけで骨が折れる、現代人の愚痴である。

 



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