近頃とみに思うことがある。
・・・ぶっちゃけこの頃の小説、つまんなくね?
別に、どっかの都知事のようなことを言うつもりは無い。
なんというかね、いっぺんだけ読む分には面白いものは結構あるのである。
例えば、最近読んだものでは、伊岡瞬、小路幸也、堂場舜一、桐野夏生、今野敏、佐々木譲、真梨幸子・・・。
というか、なんか流行作家ばっかりだな。
前述の通りいっぺん読む分にはとても面白いのである。
まあ、そうじゃなければそもそも出版なんかされないよな?
読めないほどつまらない本など無いとか、某先達も言っていた記憶がある。
ただただ、二度目を読もうとはどうしても思えない事が問題だ。
大きな問題の一つとして、物語の構成が序盤にまず伏線を提示、終盤に回収とどんでんを持ってきて『どやー、面白いやろ?』という、あまりにパターン化されたものが量産化され過ぎていることが挙げられる。
そも、ステキ伏線張ってどんでん返しが無きゃ流行作家とはいえない、と言う空気すら感じるこの頃である。
一回読めばもうおなか一杯、ああ面白かったで次など存在しないシロモノと化してしまうのである。
そんなことをふと考え始めたのは、枕もとに置いてあった藤沢周平の『冤罪』を久しぶりにめくったことが発端である。
やっぱ何回読んでも面白え!
治部新左衛門面白いし格好いい!
十数年前に購入した文庫本なのだが、すっかり変色して角も丸くなってしまっているが、どうしても手放せない一冊である。
というか、藤沢周平、山本周五郎商店、柴田錬三郎、池波正太郎などの御大の本は全て、
それを手放すなど と ん で も な い 。
という感じなのである。
昨今読む流行作家の読み物は一度読めばもう十分、古本屋に持っていくのも面倒でダンボールに詰めてごみステーションに置いとけば誰か持ってってくれるだろうという具合であるにも関らず、だ。
なんでかな?
伏線が張り巡らされたものもあるし、どんでんのあるものもある、一概に時代小説だから、ジャンル違いだから、というのは当たらないであろう。
思うに、圧倒的なまでの作家性の違いである。
メフィスト賞について少しばかり調べてみた。
講談社の持ち込みによる新人小説賞であるという。珍しい。
ジャンル問わず、兎も角も面白いが正義というシロモノで、これまで森博嗣や西尾維新などの作家を産み落としている。
ちなみに、真梨幸子もこの賞からデビューという。
受賞メンバーを見て、素直に、たいしたもんだとおもう。
ただ、やはり足りないのだよなあ。
面白い事は確かに正義である。
だが、上記の御大達は面白いのは当たり前な上に、各々圧倒的な作家性という名の個性を築き上げてきたバケモノ連中である。
例えば、上に挙げた四人の作家の短編掌編を一作ずつ四本並べれば、それぞれ読んだだけで誰がどれを書いたのかは一目瞭然だ、別に難しいことではないだろう。
しかし果たして、最前の流行作家で同様なことをして、誰がどれを書いたか、当てられる自信が当方には全く無かったりする。
面白いプロットが立てられれば、物語はそれなりに面白くなる。
ただ、圧倒的な自負を持って、その物語を己の名前によって唯一無二のパッケージングが出来るか否か、そのあたりに違いが現れるのではなかろうか。
あとは物語の力の違いだろうか。
簡単に言えば筆力の違いである。
プロットを読ませるだけではない、物語それ自体を読ませる力である。
また、その辺りにもやはり作家性というものは関係しているようで。
例えば、太宰治がどこぞで愚痴の様に
「作家は生み出した作品だけに責任を負えばよい、それ以外のプライベートなどどうでもいいじゃないか」
とか申していたが、そのとおりと思ってあげたい気分が半分といったところか。
ぶっちゃけた話、当方が『鬼平犯科帳』に読んでいるのは、あまりにも面白すぎるその物語と同時に、池波正太郎という稀代の作家そのものなのである。
確かに面白いは正義だ。
だが、面白いだけを至上としてしまうと、どうしてもたどり着けない地平がある。
これからの作家さんに、そういったものを求めるのは酷であろうか。
これが時代であるのだろうか。
そんなものクソ食らえ、である。
ああ、面白い小説が読みてえなあ。
PR