寒い寒い。
ここ札幌はいよいよ氷点下二桁の世界に突入し、はや1週間にもならんとしている。
外出るのだけでも億劫であるな。
歳取ると夏の暑さも冬の寒さも、どちらも厳しくなってくるなあ。
ま、命の危険を感じないだけ、夏のほうがマシなのであろうか。
夏になったら夏になったで、耐えがたいのだがね?
或いは、凍死する人よりも熱中症で死んでしまう人のほうがずっと多いような気はするね。
そういえばどこかで、江戸の人たちは寒さよりも暑さに弱かったと言うお話を聞いたことがある。
例えばそれは、寒行など冬の海に入っていったり滝に打たれたりするイベントはあっても、暑行という暑さを際立たせてそれに耐えるようなイベントが存在しないことでもわかるという。
鄭の宰相子産の言葉の様である。
何にせよ、もう少しあったかくなって欲しいものである。
「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」
といったのはイエス・キリストであったろうか。
ユダヤ教の選民思想をやわらかくして、様々な宗教との折衷を繰り返し出来上がったのがキリスト教であるという。
上記の台詞をどう考えるか、様々な受け取り方が存在するだろう。
当方としては、当時極盛であったローマ帝国との関係から、信仰は信仰、政治は政治という、有る意味極めて現実主義的であったキリストという人格の一面が見て取れる言葉と思う。
つまるところ、政治権力と喧嘩をするなと。
我々はあなた方の敵になるものではありませんよ、という彼なりの意思表示であったと考える。
しかし、彼の弟子達はそういった師の言葉を平気で飛び越えて権力を志向していく事となる。
千年ほどかけて、ローマ=カトリック教会の権力は極盛に達するのである。
果たしてこれは、宗教と言うものの堕落の結果であると、一言の下に切り捨ててしまってもいいものであろうか。
なぜ、宗教は権力を欲するのか。
そこには、極めて現実的な理由がある。
宗教と言うものは、所謂人の心の領域のものである。
信仰心と言うものはもう是ばっかりはどうしようもないものなのである、今も昔もだ。
これを政治権力側から見ると、非常にあぶなっかしい代物に見え、事実あぶなっかしいシロモノであることはこれまでの歴史を見ても間違いない。
法と言うものが人間の理性に訴え行動を縛るものであるのと対照的に、信仰というものは宗教的熱狂と言う言葉のあるとおり、常に感情面にダイレクトに訴えかける。
そして、感情というものは常に飛躍を求めると言う面で、あぶなっかしいシロモノなのである。
最近平ナントカが警察に出頭し、また話題の俎上にのぼせている例のあの宗教だが、アレなんかは感情の暴走からくる行動の飛躍と、限定領域内での群集心理の働きという最悪の組み合わせが発露した、極めてわかりやすい事例であると言えそうである。
故に、宗教の歴史とは半面弾圧の歴史であると言える。
政治権力の都合に合わせて、弾圧と保護を繰り返されるのが宗教というものである。
故に権力を欲するようになる。
権力に弾圧されるなら、自身が権力になってしまえばいいという、いわば必然的な帰結なのである。
まあ、一旦権力をもてば腐敗するのはあっという間なんだがな、今度は弾圧側に回るのも早い早い。
まあ、特に理由も無くそんなことを考えていた次第である。
あえて挙げれば、文中の平ナンタラの件や塩野先生のローマ人の物語が今丁度紀元前後であること、そして、年明けにある人と挨拶を交わしたとこと、衝撃的な真実を知ってしまったためであるかもしれない。
「明けましておめでとうございます」
「ああどうも、明けましておめでとうございます。ことしもよろしくお願いします。お正月はどうでした?」
「ええ、完全に寝正月でしたね、ちょっとお参り行ったくらいで」
「初詣ですか、ああ自分初詣すら行かなかったんですよね。ええと、近所でしたら○○神社ですか?それとも●●●神宮へ?」
「いえいえ、私学会なんでね、ゴンギョウへ行ってきたんです」
「・・・」
「・・・」
ひいい!
新年早々変なとこ踏み抜いた!
その後会話の立て直しに相当苦労したとかしないとか。
困ったもんだ。
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