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2008/1/13 人生における、雑感、ボヤキ、など。
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衆院選まであと一ヶ月である。
自民、民主共にマニフェストも出揃い、いよいよ関が原の空気である。
今朝の朝刊に公明党代表の簡単なインタビューが載っていた。
大体が民主党に対する剥き出しの敵意とネガティブキャンペーンに終始していた様子である。
当方は、支持政党等という無粋なものは持ち合わせていないので、楽しく傍観させてもらっている訳だが、どうにも与党連立の歴々から政治資金収支報告書に関してのネガティブキャンペーンを聞かされるたんびに腹の煮える思いがする。
特に今回のO田の言には正直言って虫唾が走る。
お前がそれを言うのか、と。
えらそうな顔してつらつら述べているが、お前らの支持母体は宗教の皮かぶって税金すら納めてねえじゃねえか。
信者から居汚く集めた無税の壷代資金にして、信者をロハの運動員としてさんざ使ってるお前らが、清廉潔白を気取るってのかい?
これならばまだ、自前の才覚で金集めて若いの養って選挙やってる自民の派閥の領袖連中や民主のエライサンのほうが、危険を冒して汗流してる分だけ好感が持てるというものである。
国民生活がどうこう言っているが、生活というものを最もわかっていないのは間違いなく連中であろう。
こんな考え方は異端であろうか?
とまれ、毎回毎回、選挙のたんびに職場にまで押しかけてきて票をねだる、あの党の運動員が、どうにもこうにも嫌いである。
公称200万票。
これを突き崩すためには、やはり投票率の上昇に賭けるより無いであろう。
あんのうっとおしい連中をなんとか黙らせてやりたいものである。
80%あたりまで行けば比例メインのあの党のこと、議席一桁台もありそうなんだがなあ。
まあ、せいぜい選挙に行くとするか。


当方は現在、姫狩りとチュパしてあげるを並行プレイ中。
チュパはまあ、かぐやだなあ、と。
アニメするの知らなかったから、グネグネ動くのを見て驚いたりした。
絵は好みが合えば良さそうだが、何と言うか、今一つテキストにエロさを感じないのはどうしたことだろう。
まあ、いきなりエロ向きだからなあ。
普段の生活とのギャップとか、あんな清楚なのにあんな事を!?とか、そういったギャップ嗜好の強い当方にとっては、いささかツボから外れてしまった印象である。
まあ、こういう手っ取り早いのが好きな人も多いだろう。
かぐやとしては、まずまず評価できると思う。
姫狩りは現在ステージ5のあたり。
だいたい、三日で一マップというペースである。
リセットの繰り返しにも、いささか疲れが見える今日この頃。
ああ、すすまねえすすまねえ・・・。
がっちりパラメーター上げてるからだろうか、現在のところ目を瞑ってもクリアできるほどの楽勝ぶり。
前評判では、結構難しいという話もあったんだがなあ。
ま、恐らくここから難しくなってくれるでしょう。
まだまだ中盤にさしかかったばかりである。
メイクマイデーである。


読書は、山本周五郎の『寝ぼけ署長』を攻略中。
ん、これは面白いかも。
いいなあ、こういう韜晦型の主人公は。
ここで署長さんのキャラクターを抜粋──


とにかく.あんな風変わりな署長はこの市はじまって以来あとにも先にも見たことがないですね、なにしろ五年の在任ちゅう、署でも官舎でもぐうぐう寝てばかりいるので、口の悪い毎朝新聞などは逸早く「寝ぼけ署長」という綽名を付けるし、署内でもお人好しでぐうたら兵衛でおまけに無能だという専らの評判でした。

署長は五道三省という名前でした、年は四十か四十一だったでしょう、たいへん肥えた人で肩などは岩のように盛上っていました、顎の二重にくくれた、下腹のせり出した、かなり格好の悪い体つきです、細い小さな目はいつもしょぼしょぼしているし、動作はなんとなくかったるそうだし、言葉つきはたどたどしくはっきりしないし、全体として疲れた牡牛という感じでした・・・。


こんな署長さんであるが、いよいよ他県への転任となったとき、面白い事が起こる。
それまで陰口を叩いていた連中がまるで血を分けた親と別れるが如く悲しがる。
署員はもちろん小使から給仕までがダダ泣きする。
貧民街の住人達など、筵旗を立てて留任陳情のデモをやったほどである。
この物語は、そんな署長さんの、面白くも不思議で、人情味あふれた、そんな生態観察の記録であり、若干の推理小説的な要素を盛り込んである、周五郎としてはある意味珍しい逸品である。
昨今の刑事事件の厳罰化の流れから見て、全く逆の楽園が、この本の中には確かに存在する。
そんな、今だからこそ、新鮮な驚きと楽しさに満ちた作品である。
ただ、惜しむらくは、作品の始めと中ごろと終わりで署長さんのキャラがいささか変わってしまっているように見えること。
後になればなるほど気取りが強くなる気がする。
はじめの方の署長さんが、好きだったのになあ。
その一点のみ、残念である。

あとがきを読むと、「新青年」誌上で連載が始まった昭和二十一年投当時、この作品の作者は伏せられていたという。
ネットが隆盛の現代においては、ある意味話題を集めそうな手法ではある。
同時に、すぐに正体が露見してしまいそうではあるが・・・。
当時も、それなりに話題に上ったらしい。
しかし、文章を読むと、一発でわかりそうなものだが。
ただ、それも今だからこそ言えること、当時は氏も若く、代表作であるところの『樅の木は残った』や『正雪記』『虚空遍歴』などははるか後年の作品である。
畢竟、文体から逆算して氏を割り出すことは難しかったであろう。
逆にいえば、そんな二十~三十代の氏が、これほどの小説的技量と達観とも言える世界観を持っていること、その事実に驚愕するばかりである。
かつて宮城谷昌光氏が何かのエッセイの中で
「驚くべき早熟の才能」
と、氏の『須磨寺付近』を読んで評価していたがまさにそのとおりである。
これは是非、お勧めしたい作品だ。
新潮文庫から出ているので、機会があれば探していただきたいものである。

早熟の天才、といえば──。
このあとはかの”アンファン・テリブル”トルーマン・カポーティの作品が待っている。
しかも二冊も。
疲れるんだよなあ、カポーティ。
『冷血』はたしかにべらぼうに面白かったが。
たしか『草の竪琴』と『ティファニーで朝食を』だったはず。
時間もそうだが、やれんのか?俺。
ああ、どらえもんでもこねえかな、ウチに・・・。
 

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いよいよ夏本番といった趣のあるここ札幌より。
暑さに限りなく弱い生物である当方にとって、またしても憂鬱な季節がやってきたものである。
具体的には、三十度を超えると活動を停止します。
夏場だけ根室とかあっちの道東方面に引っ越せればいいのだがなあ、などと本気で考える昨今。
駄目人間まるだしである。

現在、件のユダヤ警官同盟はひとまずお休み中。
フリーマントルのチャーリー・マフィンシリーズの第三巻
『呼び出された男』
が手に入ったのでそちらに取り掛かっている。
第三巻を除いて四、五、六巻と所持していた状況の中、読み進めたい誘惑と戦う日々もようやく終わりを告げたわけである。
で、読んでみると。
ああ、やっぱおもしれえなあ、フリーマントル。
前の二冊が英米両情報部とチャーリーとの血戦を描いた物語であったのに対し、今回のお話はいささかスケール的に小粒であるように感じられる。
ただし、だからと言って面白くないわけでは断じてない。
世界的な広がりを絞ったかわりに、個々の人物の描写が実に濃厚になっている。
フリーマントルといえば、世界を股にかけるスパイもの、という大風呂敷のイメージが強いが、やはりその根底には、巧まざる人物描写の技があるのだ。
その時々の人物の内面や人間性など、必要にして十分の文量、筆力、筆致で物語の中に刻み込んで行く様は、ある種の畏怖さえ感じさせる。
そのうえで抑えるべき情報は抑え、伏せるべきものは伏せ、その絶妙なバランス感覚は思わずページを繰る手が止まらなくなってしまうほどである。
さすが、エスピオナージュの本拠地、英国の看板作家であると感心しきりである。
現在は四巻目の途中であるが、このぶんだとあっという間に手持ちが尽きてしまいそうである。
ああ、読むのがもったいない、ついついそのように感じてしまうこの頃である。
業の深い事だ。

静岡県知事戦は民主系候補の勝利であった。
今回の民主は分裂選挙となり、自民系候補の圧勝で終わるだろうと予想していただけに、いささか驚いてしまった。
僅差であっただけに、一連の首相の行動が響いてしまった印象はぬぐえないだろう。
最新の世論調査では、内閣支持率がやや回復傾向にあるという結果が出たようである。
民主の鳩山代表の政治資金収支の虚偽記載が原因の、いわば敵失であるといえようが、はたしてどこまでこの結果を信用してよいものか。
首相周辺ではこの問題を徹頭徹尾つついて行きたい意向を示しているが、どうにもいい大人がと、みみっちくてそろそろ目障りに感じる。
そもそも、自分らの内側にも与謝野やら渡辺のボンボンやら、まあ良い感じグレーな政治家が山ほどいるではないか。
いずれ、次の都議選が天王山となるであろう。
一連の狂騒の結果はすぐにわかるはずである。
こう考えると、自民としては、やはり麻生が首相になった瞬間にやっておくべきだったのだろう。
あの時期もいろいろあったが、それでも今回ほどに追い詰められる事は無かったはずだ。
そもそも、一国の宰相を選挙の顔などとふざけた理由で選ぶのが惰弱なのである。
自民としてはさしずめ小泉の二匹目の泥鰌といったところだったのだろうが、その考え自体がもはや思考放棄といってよい。
党の顔など気にせず、国政において自分に何ができるのか、そのあたりをしっかりと考えて、どの政治家も選挙に臨んで欲しいものである。

さて、そんな政治談義の次はエロゲーである。
この落差がたまらない。
自画自賛である。
現在、蝶の夢、姫狩りDMを筆頭に、多数の積み在庫を抱えている当方がプレイしているのは、実は真恋姫無双だったりする。
パッケージ見てたら、も一回やりたくなった。
せいぜいがその程度の理由である。
世間的な評判では蜀ルートがどうも悪評芬々なのだが、当方はそんな蜀が大好きである。
これは、張飛と呂布の影響が大きいと見る。
この二人でもうおなかいっぱいですよ?
そのほかにも、他のルートでは無いあのグダグダな雰囲気がたまらなく好きだったりする。
まあ、とりあえず恋姫熱も一段落といったところなので、そろそろ積みゲー崩しを始めないとなあ。
そういえば、今週の金曜日は仏蘭西少女の発売日か。
マタ、ツミゲーガ、フエルナア・・・。
とりあえず、丸谷さんには頑張って欲しいですな。
Tony氏はまあいつもどおりで十分です。
仕事サボってでも買いに行く、それが漢の生き様であると信じて。
・・・反省などしない。
 

季節モノである。
ちなみに、まともに考察などするつもりはない。
ちょっとしたネタと考えていただければ・・・。

高橋克彦の
『京伝怪異帖』
を読んでいてふと思った。
何ゆえ、幽霊には足が無いのか、と。
就寝前、布団に潜りながらつらつら考えた挙句導き出した答えが、下記のとおりである。

・足はあるが、見えにくい。
・なんとなく移動タイプが飛行っぽいから”足は要らない”と始めに足無し.タイプの幽霊を考えついた人がそのように設定した。
・足が無いことによって、幽霊と一目でわかる手軽さがうれしい。

この三つである。

第一に、足はあるが、見えにくいという奴について。
まずこれは、幽霊というものが実際に存在したことが前提である。
江戸期やそれ以前の日本家屋というものは、随分と薄暗かったのではないかと思う。
以前、大変態文豪であるところの谷崎潤一郎の何かのエッセイで読んだが、西洋的な文化は、闇を嫌い、室内なども徹底して明るさを求める傾向があるようだ。
それに対して日本的文化はある程度のほの暗さを許容、というかむしろそれを愛するところがあるらしい。
古い日本家屋を見ればわかるように、室内は至って薄暗い。
そして、構造的に、足下すなわち床などは暗色であり、壁などは漆喰や壁土など、比較的明るい色を用いられることが多い。
その上、幽霊の主な出現時間帯が夜であることを考慮する必要もあるだろう。
これらを考え合わせた上で、一般的な幽霊の容姿的イメージ、つまりどこかぼんやりした、半透明で向こうが透けて見えるイメージを当てはめて考えると、観測の仕方によっては足が”見えない”というのは十分に考えられる事態である。

次に第二の考え方について。
これは幽霊というものの存在は、あってもなくてもどちらでも良いというものである。
上記に挙げたとおりなので、説明するまでも無いが、実はこの説は第三の説とも密接なかかわりを持っていると考える事ができる。
そこで、順序はいささか混乱するが、まず第三の説を考えてみよう。

第三の説で言いたいことは、つまり、幽霊という存在が、足が無いということによって明確に認識(あるいは差別化)できるという事である。
人間というのは、本能的に”よくわからん”ものを恐れる傾向がある。
いうまでもなく、幽霊というのがその”よくわからん”ものの代表格に挙げられる存在であろう。
「人間の幽霊であるのだから、人間の形をしてるはずだ」
これが恐らく、人間型の幽霊のはじまりである。
なんだかよくわからん、曖昧模糊としたものに、人間の”かたち”を与えた格好だ。
かたちさえあれば、その存在さえ関知できれば、とりあえず恐怖する対象があるだけに、それは理解できる恐怖となるのである。
しかし、人間社会の肥大化とともに、それでは収まりがつかなくなるときがやって来る。
所謂、村社会から都市型社会への変遷である。
村社会においては、ひとつの集落において全員が顔見知りであり、人間が流れて歩くこともごくわずかであった。
それに対して都市型社会では、行き交う多くの人間が、すべて知らない人間であることがあたりまえとなったのである。
畢竟、より明確に幽霊というものを差別化して捕らえねばならなくなったという過程がある。
つまり、行き交う人の中に幽霊が紛れ込んでいても、それが幽霊であるとわからないという事態が持ち上がったのだ。
この現象は、人間の形をあたえたはずの幽霊というものが、再び曖昧模糊とした存在に逆行してしまうということに他ならない。
そして、人間はその恐怖に耐えられないのである。

そこで第二の説の台頭である。
或いは、過去においてとある人間が、足の無い幽霊というものを考え出したのだとする。
それが誰で、いつの事かは無学な当方はわからぬが。
しかし、それが時代というものに見事に合致していたということは良くわかる。
必要性がなければ、この日本という国に住むすべての人間の共通の認識となるほどに、広がることもなかったはずだからだ。
”足が無”くなることによって、幽霊という、薄暗がりに引っ込みそうになった存在が、再定義されたのである。
このように考えると、思想としては、ある意味とてつもなく偉大な一歩であるような気がする。

とか、まあ、うつらうつらしながら考えた事を、文章にするとこんなわけのわからんものになった。
ちなみに、当方は幽霊という存在を信じてはいない。
なぜなら、見たことがないから。
いっぺん目の当たりにすれば、信じるようにもなるのだろうがなあ。
まあ、信じたところで、おっかながるかどうかは、また別のお話。
想像してください。
暗がりに潜んでいる幽霊と。
暗がりに潜んでこちらをじーっと見つめている人間と。
はたしてどちらが本当におっかないか・・・。
うわ、こわっ!
やはり、人間がいちばんおっかないというお話。
 

ここ数日、賑々しく執り行われたヨサコイソーランもようやく終わり、入れ替わりに北海道神宮祭、いわゆる札幌祭りが始まる。
初夏の訪れを告げるイベントだが、しかし、未だに肌寒い日が続いているここ札幌である。
本州方面からやってきたお客さんや踊り子さんたちも、ここ数日の朝夕の寒さには驚かれたのではなかろうか。
風邪等召さなかったかどうか、心配である。

さて、ここ札幌では、アカシアの花が満開である。
アカシア、本名ニセアカシアは明治期に日本に輸入され、防風、防砂林などとして定着した外来植物である。
札幌でも街路樹などに多く用いられており、白く可憐な花が鈴なりに咲くさまは、この季節の風物詩といっても過言ではあるまい。
そとに一歩踏み出すと、甘やかな香りが鼻腔をくすぐる。
それだけで心が浮き立ってくるから不思議なものである。

ただ、このニセアカシア、つい最近要注意外来植物に指定されてしまい、各界に波紋を引き起こした経緯がある。
主に養蜂業などは大混乱に陥ったらしい。
たしかに、ニセアカシアの蜜といえば、国内では最高級品の一つとして流通しており、実際に駆除対象ともなればこの花を主力とする養蜂業は枕を並べて討ち死にである。
ただでさえミツバチの集団死など、よくわからぬ現象が起こっている昨今だ、なかなかに大変そうである。

生育の早さと、土地を選ばず繁殖する緑化能力の高さから重宝されてきたニセアカシアではあるが、逆にそれが仇となり大繁殖してしまったのがいけなかったようだ。
ここ北海道においても、主に管理放棄された土地(元農地や元牧場)などに繁殖し、その分布をじわじわと広げているという。
いずれにせよ、しっかりとした管理が必要なものであるようだ。

当方が田舎にいた頃、この花は専ら食用であった。
花を食す、といえばなにやら小洒落た感じを受ける。
意外に知られていないだろうが、実はこのニセアカシアの花をてんぷらにして食べると、べらぼうに美味である。
花弁のさっくりとした歯ざわりと、花の蜜のほのかで上品な甘さがまさに至上の美味である。
幼い頃は、この季節になるとスーパーの買い物袋などを持って山に分け入り、ニセアカシアの花を集めたものである。
ニセアカシアには棘があるので、なかなかに難儀ではあるが、それを差し引いても苦労に見合うご馳走であった。
母親などは、私が泥んこになって、所々引っかき傷をこさえながら、スーパーの袋いっぱいのニセアカシアを差し出すと、実に迷惑そうな顔をしたものだ。
今となっては、良い思い出である。
とった花は水洗いして水気を取り、軸についたその姿のままてんぷらにする。
あるいは花だけざっとこそげとり、かき揚げのようにして揚げても美味いだろう。
排ガスまみれの市内の花ではあまりぞっとしないが、機会があったら久々に食べたいものだ。
是非、お試し頂きたい。

そう長い寿命を持つ樹木ではないだけに、ニセアカシアの木が札幌の街路から消える日は、遠くない日にやって来るだろう。
倒木の危険の高いニセアカシアが、恐らくこのご時世に再び街路樹として植林される事は考えにくいからだ。
いずれ、街を包むこの香りを楽しめなくなるのは、とても残念に感じる。
 

ミサイル打ちまくりである。
しかしまあ、あの自称地上の楽園にも困ったものだ。
将軍様やテクノクラート、高級軍人などにとってはなるほど地上の楽園なのだろうが、一般人にとってはたまったものじゃなかろう。
周りの我々にとってもたまったものじゃない。
いつミサイルが飛んでくるかヒヤヒヤである。
奴らは実際やりそうだしなあ。
まさしく基地外に刃物、である。
国家としての存在意義の消失どころか、存続しただけ害毒を垂れ流しつづけている体たらくだ。

実際のところ、現状、金家の求心力というのはどの程度のものなのだろうか?
たとえば、もし戦争が起こったとして、国家の中枢である将軍様とその一族郎党、そして高級軍人とテクノクラートをある程度まで排除した場合、現状のイラクのような泥沼になるのであろうか?
素人考えではあるが、実のところその可能性は低いのではないかと思える。
中東の様に宗教的な縛りも希薄で、いざとなれば韓国という受け皿も存在する。
国家としての貧しさも恐らく国民レベルでの実感があるだろう。
これだけの条件がそろえば、頭さえ潰してしまえば緩やかな統治から自治、そして統合へというのは決して絵空事ではなさそうな気がするのだが・・・。
問題は、その過程において必ず相当の血が流れるであろう事、或いは核をぶっ放すところまで行ってしまうかも知れぬというところであろう。

少なくとも、金家が存続する限り、なかなか体制の瓦解は見えてこない。
クーデターも考えにくいしなあ。
軍部という名のバケモノがクーデターを起したとして、現状より良くなる可能性も考えにくいところだ。
このまま経済封鎖を続けて国家そのものが消失してしまうのを待ちたいところでもあるが、それをやると悪人の最後っ屁がおっかないし。
結局は堂々巡りである。
なんか上手い方法はないものかねえ・・・?
まるでアサルトライフルを持った駄々っ子である。
困ったもんだ。

先日、久々に味噌汁なるものをこさえた。
飯を炊ぎ、納豆と焼き魚と味噌汁でディナーとしゃれ込もうとしたわけである。
結果・・・。
味噌汁がなべからあふれそうになった。
どういうことかといえば、だ。
味噌汁の具を考えたとき、いろいろ頭に浮かんだのがいけなかった。
まず、葱を思い浮かべた。
ああ、いいね、根深汁。
葱は文化である。
しかし、それだけではいかにも寂しい。
豆腐を入れることとした。
もう、黄金コンビである。
そう、それだけでやめておけばよかったのに・・・。
あろうことか、油揚げと大根1/2まで購入してしまったのが間違いの始まり。
いや、明らかに入れすぎだろ。
冷静になって考えれば、たしかにそうである。
しかしそのときの私には、そんな考えは微塵も浮かばなかったのだ。
失敗を悟ったのは、出しを引き、具を投入する段となってである。
葱を大ぶりにざっくりと切った。
豆腐をサイの目に切った。
大根をいちょうに切った。
油揚げを細切りにした。
まあ、大根半分のいちょうはなかなか壮観である。
このあたりで
”あれ?おかしいな・・・。”
とか思ったことは確かだ。
だが、それでも深く考えなかった。
なべに次々投入していった。
気づくと、なべいっぱいの味噌汁が出来ていた・・・。
そんな次第である。
ちなみに、久々に作った割には、べらぼうにおいしかったです。
ただし、処理に三日間かかったが・・・。
これからは気をつけよう。
 



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