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2008/1/13 人生における、雑感、ボヤキ、など。
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さて、皆さんは笑い袋という存在をご存知であろうか?
世代によって見解を異にするところはあると思うが。
過日、職場においてとあるきっかけから笑い袋の話になったのである。

その場においてはこの”わらいぶくろ”という物体、その存在について知っている人間がほとんどいなかったというのが驚きである。
世代的に当方より一世代ないしは二世代ほど下がるとまず
「ナンすか、それ?」
という答えが返ってくる。
ちなみにこういった場合は一世代を五年と考えるのが通説である。
故に、25~6歳以下の連中は、大概が
「知らない」
と答えるのである。
或いは
「あーあー。ドラクエですね」
なーんて答えを返してくる若造もいる。
いたなあ、そんな敵。
お金いっぱい落とす奴。
だけど残念、奴には元ネタがあるのだ。

では、この笑い袋という不思議な物体について説明することとする。
とはいえ、当方もこの物体と遭遇すること、あまり豊富では無かったので、世にあふれる笑い袋達にはまた違った趣の者もあるだろうが、そのあたりは敢えてご容赦願いたい。

まず外見から。
何のヘンテツもないただの巾着袋である。
当方がその存在を関知している唯一の個体は、薄茶色の袋であった。
手のひら大の大きさであったと記憶している。
表面になぜか”布袋様”の絵がドーンと朱書きでプリントされている。
そういえば布袋様を許せないといったのは太宰であったか?
たしか富嶽百景あたりだったと記憶している。
いわく、下品である、と。
あのようなものを好む美的感覚がどっかおかしい、と。
んー。
まあ縁起物だからねえ。
少なくとも笑い袋は縁起物ではなさそうだが。
しかし、当時は縁日なんかで売っていた”ような”気がするのであながち違うとも言い切れない、か。
そのあたり、あまりはっきりとは覚えていないのである。

このような外見で、持ってみると意外と重い。
袋の中にはなにやら黒くてごつごつした機械がすっぽりと納まっている。
その名に反して、あまり面白いとはいえない容貌である。
が、しかし、だ。
その機能はまさしく”笑い袋”と呼ぶにふさわしいのである。
別段、その物体を使用することで誰もが笑うというわけではないであろう。
誠に遺憾ながら当方は腹を抱えて爆笑させられたクチであるが。
それでも、笑わずともその名にふさわしいその物体の機能とは──。

爆笑するのである。
袋、が。
袋の真中あたりの布袋様のおなかをぐいっと押すと
「イ~ひっひッひっひぐへへへへ~うほっいや~はっはっ」
笑う笑うひたすら笑う。
もうものすごい勢いで。
下品にあけっぴろげにこれでもかというほどに。
当方、生まれてこの方あのような下品な笑いは聞いたことが無いほどである。
しかし、不思議なことに。
この笑いを聞いているとなぜか不思議と笑ってしまうのである。
当時、その笑い袋は当方のいとこの持ち物であったのだが。
その姉弟達と友達あわせて四人ほどでもう腹筋が壊れるほど笑った記憶が、ある。

こうして語るとそれほど面白いものでもなさげに聞こえるであろう。
当方もそのように感じる。
おそらく、現在彼の物体がこの場にあり、布袋様のおなかを押してもそれほど面白いわけではなく、その笑い声にいささか躁的な薄ら寒さを感じるだけかも知れない。
が、その存在自体がある意味”面白い”と、今となっては感じざるを得ない。

つまり、だ。
あれはものすごいアイデア商品である、ということだ。
お笑いのライブなどを見ていると、ついつい引きずられて笑ってしまうことがある。
冷静になってVTRなどで見直すとそれほど面白いものでもないはずなのに、である。
あの場の
「面白いに違いない」
という空気と
「笑ってやるぞ」
と笑う気満々の人々が発するちょっとしたネタに対する笑い声に、つい引き込まれてしまうのである。
それは言ってみればサクラであり虚飾であり、うつろな内容のものであるかもしれない。
が、それでも笑える、笑ったという事実は動かし様がないのである。
ドリフで名を馳せた某●の会などもその類であろう。
そんな風の●を商品として巾着袋に詰め、布袋様をプリントしたシロモノ。
それがあの笑い袋の正体であると言えなくも無いと考えるのは穿ち過ぎであろうか?

思い起こすとやはりなかなか斬新である。
一人で、冷静になって聞くときっとむなしいだけであろうが。
パーティーグッズとして仲間内のざっかけない席であの笑い声を聞いたら、きっと面白いほどに笑ってしまうような気がする。
さて、これは売れるだろうか?
リメイクで商品化したらはたしてどの程度の動きが考えられるか。
原価はどの程度でいけるかな、利鞘は?
そういえば特許とかあんのかな?
やはり笑い声の演じ手のチョイスが重要なファクターに・・・。
などと、ついつい夢の無い考え方をしてしまう。
笑い袋を前に爆笑していた当時と引き比べ、随分と薄汚れてしまった自身を嘆く、そんな日である。
 

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先週のしまいあたりから、天気予報を装備しました。
これで競馬の予想もばっちりさ。
まあ、当たるかどうかはまた別のお話。

実は自分、天気予報が大好物である。
特に夏の天気予報が、である。
なんか「うわ、きょうも暑そうだ」とか「うわ、三十度超えてるよ」とか言うのが大好きなのである。
いや、暑いのはとても苦手であるのだが。
なんていうのかな。
そういった暑い寒いに一喜一憂すること自体が好きなのである。
んー。わかりづらい、か。
まあ、スペック不足で上手く説明できないので、このあたりにしておこう。
天気予報、というお題で、以前新聞で仕入れた面白いお話がある。
お隣、韓国での天気予報について、である。

ぶっちゃけ、彼の国においては。
天気予報が異常に当たらないらしい。
「きょうは雨は降りません。良いお天気でしょう」
等と言った先から集中豪雨となったりするようだ。
あくまで極端な例ではあるが。
しかしそのために
「雨が降らないって言ったから河川敷に車を止めておいたのに、流されちまったじゃないか。賠償を要求するニダ」
などという嘘のような本当の話もあったらしい。
ってーか河原に車置いとくなよ。アホの子か。
もうネタとしか思えないよねえ。

まあ、そこまでではなくとも。
「週末は雨が降るといったからバカンスを取りやめにしたのに、いいお天気で損をした気分だわスティーブ」
とか
「きょうは晴れるといったから家族でピクニックに出たのに降られて散々だったよジェニー」
等ということは日常茶飯事であるということだ。
それっくらいならばかわいいものだが、一次産業に従事する人などは大変であろう。
農業、漁業、林業などは、自然との戦いでもある。
あまりに予報がアテにならないと、漁業や林業などでは命の危険さえ伴うのである。
笑い話ではすまされなかろう。

なぜ、このように予報が当たらないのか?
実は韓国での天気予報、どうやらコンピューターのお仕事らしいのである。
気象衛星などからあがってきた天気図や気圧配置などを専用のソフトにかけ、それをそのまま流してしまうのである。
さて、合理的な方法の様に思えるが。
これがやはり当たらないのである。
その分野のソフトの開発状況など知る由もないが、やはりコンピューターにも得手不得手というものがあるのだろう。
日本においては国家資格の気象予報士など、いまだマンパワーによるところが大きいのだが、韓国より日本に観光に来たひとが、天気予報の精密さに驚くという話もあるようである。
いや、こちらにしてみれば結構ハズレもあるよ?という話なのだが。

さすがに彼の国でもこのままではイカンと思ったのか。
最近では「日本の気象予報士を呼んで予想について教えてもらおう」という向きもあるようだ。
さて、それが国家単位の気象庁へのオファーという形であるのか或いは民間の予報士を招聘しての勉強会という形になるのかはわからないが。
さてさて、どれほどお役に立てるものか・・・。
基本的に大陸の天気とは別物だろうし、ねえ。
まあ、上手くいったらお慰み、といったところであろう。

なんにせよ、現在日本の天気予報は世界的に見て最高ランクの的中率を誇っているようである。
んー・・・。
普通に生活してるとあんまりそうも思えないときもあるのだがなあ。
使ってる気象予報士次第で結構ばらつきあるようだし。
当たらないと評判の某都知事一族のアレとか・・・。
もっと頑張れよ●純。

というわけで。
当方の予想のためにも、予報士さんにはおおいに頑張っていただきたいものである。
まあ、馬場の状況が正確にわかったからといって当たるかどうかはまた別の(ry
では、今週はクイーンステークスGⅢを予想します。
お楽しみに。
 

本日は朝6時に目が醒める。
休みだというのに(いや、休みだからこそ、か?)こうである。
ざっと朝刊に目を通し、さて本日はどうするかなどと思案する。
天気もよさそうで、さわやかな一日となりそうだ。
とはいえ、別段、予定などない。
今月は記録的な金欠のため、一杯のラーメンを食いに往くのもキビシイ状況である。
ならば畢竟、コモるより他やることがない。
というわけで朝っぱらからおもむろにパソの電源を入れ、先ごろ購入した『殻ノ少女』をプレイする。

印象としてはなかなか良さげである。
起動のたびにディスクチェックが入るのは結構うっとおしい。
既読スキップが重いのも難点か。
全体的にシステムや切り替わりが重く、繰り返しプレイには向いていないと感じる。
が、このような重いお話は当方、大好物である。
テキストもシナリオも現段階ではなかなかに好感触。
で、気が付くとバッドエンド一直線。
画面に”GAMEOVER”の文字が。
んん?

気づけば時間は11時前。
酷い終わり方だったこともあり、やや頭痛を感じる。
一旦プレイを止め、パソの電源を落とす。
気分転換が必要である。
薄っぺらいお財布を持って、散歩へGOである。

休みの日などは、何もせずごろごろしていると、どうにもよろしくない。
頭痛がしたり体が重かったりと、如実に体調に現れるのである。
故に、健やかなるエロゲライフを満喫するためにも、適度な休憩が必要であると、最近は痛感している。
そして、こういった場合は散歩が一番である。
のんびりとあたりを眺めながら、ただただ歩く。
これが良いのである。
2~3キロも歩いて一汗かけば、体調も随分と良くなるし、頭もすっきりしてくる。
藤沢周平氏も著作『ふるさとを廻る六部は』で、そのようなことを言っていた記憶もある。

で、ぶらぶらと。
前述したとおり、さわやかな天気である。
風も程よく吹いており、散歩にはもってこいだ。
近所の小学校では、野球の試合をしていた。
街の中の小学校としては、まだしもグラウンドは広いほうか?
だがやはり野球をするにはやや手狭である。
センター、レフト方向は良いが、ライトがファーストベースのすぐ後ろを守っている。
そしてそのすぐ後ろがフェンスである。
うなぎの寝床のようだ。
なんともシュールな光景である。
当方の育った環境は正直ド田舎である。
が、それだけに土地はいくらでも余っていた。
小学校のグラウンドなどは、野球場が楽に二面取れる広さであった。
今思うと、実に贅沢な話ではある。
あんなところにごっそり土地でも買って引きこもるのも良いのではないか。
広い庭に好きな草木でも植えながら生きるのも良いかも知れぬ。
ふと、そのように思った。

さらに歩いて、繁華なところへ。
南一条通りにぶつかる。
ここを歩いてゆくと、一軒の古本屋がある。
確か『なずな書房』とかいったか。
風が吹けば吹っ飛びそうな掘っ立て小屋である。
周りにはぺんぺん草が生えている。
中も実に狭く、二十畳もないであろう敷地に、所狭しと本が詰め込まれている。
なんとまあ実に味のある本屋である。

十年ほど前であろうか?
ここで一冊の本を買ったことが強烈な印象として残っている。
菊池寛著『日本文学案内』である。
何気にほか数冊といっしょに手にとり、店主のいるカウンターへ。
特に値段は気にしなかったのが仇となった。
「一万二千円です」とか言われてマジでびびった俺がいる。
が、当時はまだ若く、いい振りこき(これは方言であろうか)でもあった。
「あ、ああ、い、いちまんにせんえんね・・・」
とかいいながら、震える手でお財布から一万二千円を。
店主がいい笑顔で「ありがとうございました」という声を背中で聞きつつ、あまりの散財に悲しみに打ち震えた記憶がある。
ねぐらに帰って明けてみると裏の扉に『菊池寛 日本文学案内 初版 ¥10000』とか付箋が貼ってあった。
思わぬお宝ゲットだぜ、などと喜ぶ気も到底起きず。
その月も確か我が食卓はカップ麺が主力であったと思い出したりした。

菊池寛、といえば。
思い出すのが直木三十五文学賞である。
通称”直木賞”。
現在、日本で最も有名な文学賞の一つであろう。
その直木賞の黒歴史である。
とはいえ、それほどご大層なものでもない。
文学賞開始より現在まで唯一の受賞辞退のお話である。
辞退者の名は山本周五郎。
辞退の経緯に関しては本人も多くは語らなかったこともあり、諸説芬々としているが。
面白いのは、山本周五郎と菊池寛は仲が悪かった、というものである。
当時、賞を主催していた文芸春秋のえらいサンに、菊池寛の名前がある。
山本周五郎にしてみれば「誰があんな奴の文学賞なぞ受けるものか!」位の騎虎の勢いだったのであろう。
しかし、そんな山本周五郎に賞を与えんとした菊池寛というのも中々に大きな人物である。
それとも周五郎が勝手に嫌っていたのかな?
いずれにせよ、直木賞の歴史においては一点、消し去れぬ黒いシミであることは間違いなかろう。
それを残した人間が山本周五郎、本名清水”三十六”(さとむ)というのもなにか奇妙な縁というものであろうか?

なずな書房において講談社学術文庫の『秦漢帝国』を今度はしっかり値段を確認して購入し。
近所のコンビニにおいてスーパーカップを二つほど買い、家路につく。
やや散財であったが。
やはり散歩は良いものである。
歩いていると、普段にはない取りとめも無いことを考えるものだ。
とか言ってると、どうやら雨が降ってきたようだ。
通り雨のようであるが。
昼寝にはもってこいである。

ということで。
今週は函館の巴賞を予想する予定である。
明日の朝方にはアップしたいところ。
お楽しみに。

さて、当ブログも開設より半年を経過しようとしている。
一日、片手で数えられるほどの訪問者しかいないまさに限界集落のごとき過疎ブログではあるが。
このような駄文をこね連ねることしか能の無いここへいらしてくださる方々には、全く頭の下がる思いである。
ありがとうございます。

さて、当方、いい年こいてみっともないエロゲーマーである。
社会の敵、パブリックエネミーと呼ばれそうな存在であることは重々理解している。
エロゲー、といえば。
どこかで見たがまさしく『大人かわいい女子も叫んで逃げ出す究極のハラスアイテム』である。
世の中広しといえどもそのようなものにはそうそうお目にかかることは出来ぬことうけあいである。
が、まあ、それはそれで、エロゲーでしか得ることのできぬ、決して他人には言えぬどこかほの暗い愉悦のようなものはあるので、別段そんな境遇を脱しようとかは思わぬわけであるが。

さて、そんな当方がエロ輔などでゲームについての評価を下すとき。
いくつか重視するポイントがある。
ざっと頭に浮かぶのが、絵柄の好み、CGの塗り、BGMの質、ゲーム性の有無、シナリオの質、量、そして読み物としてのテキストの読みやすさ等である。
さて、今回ここで問題にしようとしているのは、この『ヨミヤスサ』というものについて、である。

読み易さ、とは、具体的にどのようなものであるか。
これはなかなかに難しい。
簡潔に言えば、当ブログの正反対のような文章のことであろうか?
ざっくりと簡潔に。
余分な修飾は極力除き。
読むのに困るような難しい漢字は決して多用せず。
傍らに辞書が必要なほど難解な熟語などを使わず。
気負いや気取りを感じさせる言い回しは控え。
それでいてしっかりと意味や状況を読み手に伝えることのできる文章である。

このように書くと、なにやらクソつまらぬものであるように感じる。
実際に、それ”だけ”の文章であれば、確かにあまり面白いとはいえぬかも知れぬ。
過去に一度、ざっと目を通したことのある、彼の『携帯小説』のようなものを想像してしまう。
紙の無駄遣いかというほど白っぽいページ。
ぶつ切りの文章。
矢鱈と広い行間と、あまりの手ごたえの無さ。
が、実は当方、あれはあれでよいと思っている容認派である。

確かにあれは、自身で読んでも決して面白いとは言えぬシロモノであった。
が、実際にあのようなものが”売れて”いる下地というのは確かに存在するのである。
既存の文芸的形而下には決して収まらぬ、そして既存の権威的視点から見れば全く取るに足らぬイロモノ。
であるにも関らず、それは多くの大衆に支持されたのである。
彼らはコムズカシイ、大上段に構えた、権威によって過剰に修飾され孤高へと追いやられた、逆に言えば狭く深くマニアックに成り往く既存の”ブンガク”というものよりも。
あのような”軽さ”と”簡潔さ”。
ある意味”おおらかさ”を支持したのである。

とはいえ、最近はあまりその存在自体耳にしなくなってきてはいる。
しかしだからといって、彼の携帯小説群を”一過性のブーム”と見るのは早計ではあるまいか。
心せよ。彼らは再び現れる。
トレンドという姿を借りて、我々の目の前に。
一握りの権威によって決定され、大衆的価値観との乖離を進め、狭く深くよりマニアックとなった”ブンガク”をあざ笑うかのように・・・。

と、話が大幅にそれた。
つまりそれほどこの『ヨミヤスサ』というのは大事な要素なのだ、ということである。
内容云々以前に、まず、読む気にさせなければ意味が無い。
そのためにはやはり万人に読みやすい簡潔さ、というのが必要だと思うのである。
権威の上にあぐらをかき、「わかるものだけわかればよい」というのでは、ある意味潔くはあるが、しかし、その道で食っているプロの文章家としてはあまりにお粗末である。
故に、文章的な見地において”人を選ぶ”というのは、全くと言ってよいほど否定的な文言であると言える。
まあ、言ってる本人たちにしてみれば、そこにもまた隠微なほの暗い愉悦のようなものがあるのだろうが・・・。

ただし、そのように言っても、である。
簡潔に、素直に、それでいて力強い。
読むものをあっという間にその世界に引きずり込む。
そんな文章を書けるのは文学史上を見ても極々一握りの存在である。
彼の太宰治もとある短編の中でこのようなことを言っている。

”素朴な、自然のもの、従って簡潔な鮮明なもの、そいつをさっと一挙動で掴まえて、そのまま紙にうつしとること、それより他には無いと思い、そう思うときには、眼前の富士の姿も、別な意味を持って眼にうつる”

もちろん太宰はこのように言ったすぐ後、いやしかしそれでもなどとぐずぐず思い悩む姿をしている。
ここで彼の言っているのはいわゆる文章内における局所的な”単一表現”のことであり、文体自体のことではないであろう。
なるほど一目見て「ああ、太宰だ」とわかるほどアクの強い文章を書く太宰らしからぬ言葉と思う。
が、ある意味、上記のような文章もまた、一つの到達点であるような気がする。

当方がこのようなことを言い出したのは、つい数ヶ月前、一冊の本を読んだからである。
その本のタイトルは
『歴史と視点─私の雑記帖─』
なる、司馬遼太郎氏の著作である。
氏の著作はいくつか読ませてもらっているが。
総じて実に文体が簡潔である。
その上、文章に引き込む力が兎に角凄い。
そしてそれだけではない。
読んでいると必ず、なんと言うか、強烈な光を放つ一文が思いもよらぬところに潜んでいるのである。
上記の著作の冒頭に、このような一文がある。

”人間というのは日常世界のベルト・コンベアの上に載せておくと他の生物同様、いかにもしおらしい。
しかしひとたび─戦争や革命などで─まかりまちがうとなにを仕出かすかわからないバケモノ性をもっている。
バケモノは一面では戦慄的だが、一面ではとほうもなく雄大である。
日常生活にあってその戦慄にあこがれる体質の人は好戦的ドスの利いた畳の上の愛国者になり、雄大にあこがれる人は焦がれるような革命願望者になるのであろう。”

わかりやすく簡潔な文体でありながら、と胸を突く文章である。
この発想、人間への観察眼。
どのように生きればこのような発想に行き着き、どれだけ文章を書きつづければこれほど簡潔でそれでいてすっと胸に入り込む文章を書けるのか。
何気ない文章であっても、その研ぎ澄まされた文体はまさしくある地点にたどり着いたものだけが扱える神韻を伴ってると感じるのはいささか言いすぎであろうか?

で、情けなくも自分の開設半年となるブログ上の駄文を思い出してあろうことか比較までしてしまったのであるこの阿呆は。
ああ、ゴメンナサイゴメンナサイ・・・。
別段文章で食っていこうなど考えたことも無いし。
あちらはプロの中のプロ。
日本中の物書きが一度はその上を通って絶望するであろう伝説の存在である。
こちら側の自分ごときがどうということもないはずなのではあるが・・・。
ただ、なあ・・・。
せめて自分のブログ位は、もう少しわかりやすく簡潔に、面白く書きたいものだなどとふと己を省みてあまりのみすぼらしさに絶望しただけなのである。
生まれて、すいません。

が、あきらめてしまえばそこまでである。
彼の司馬氏とて、その境地にたどり着いた道程を”才能”の一言で切り捨てられるのはさぞや心外であろう。
いずれ、書きつづけていれば、もっと簡潔で、平易で、そして面白い文章が書けるようになる。
それが果たして十年後になるか、二十年後になるか。
五十年後になるか、六十年後になるか・・・。
いや生きてんのか?自分。
てか、そのときもまだエロゲとかやってたらいやだなあ。
いやいや、それはそれで尊敬に値する・・・か?

ちなみに。
司馬さんの『歴史と視点~』はとても面白かったです。
どうしようもなく暗い時代の話であるはずなのに。
どこか不思議なユーモラスさがあり、腹を抱えて笑いました。
もちろん、いろいろと考えさせられることもしきり。
なにか読むものを探している方は、ぜひ、ご一読をお勧めします。
新潮文庫より、出ている、はず。
なにせ古本屋で買ったものだからなあ。
興味があればお探し下さい。

いつの間にやらサミット期間である。
街で見かける外人さんも随分と増えているように感じる。
サミットにあわせ、さまざまな催しや会合などがあるからだろう。
何にせよ、にぎやかな事は結構ですな。

ただ、困った事もある。
それは、突然の交通規制である。
大概の市内におけるイベントの場合、事前に規制個所や時間などがわかるようになっているのだが、今回ばかりはそうはいかぬらしい。
まあ、イベントの性質を考えればあたりまえか。
しかし、今回も突然の規制により、駅前などでは阿鼻叫喚の地獄絵図と化すのであろうなあ。
事前にわかっていても、不便なものである。
昨年などは当方、まんまと札幌マラソンの渋滞に駅前でつかまってしまったクチである。
しかもタクシーで。
動かないわメーターはずんずん上がるわあちらこちらでこすったりぶつけたりの事故は多発するわで、まさしく現場は酸鼻を極めていたものである。
で、結局タクシーは大通公園を越えることあたはず。
駅から大通まで三千円もかかってしかもそこから歩く羽目になってしまったのである。
恐らく今回は、中心部は麻痺に近い状況になるのではなかろうか。
あらかじめ、これからつかまる人のために。
ご冥福をお祈りします。

さて、きょうはエロゲー、『殻ノ少女』の発売日であった。
某ヨドバシまで出向き、購入してきた。
が、そのあまりのコンパクトさにいささかびっくり。
思わず
「これで・・・いいんだよな・・・?」
とか、購入をためらってしまったほどである。
いやー、小さい小さい。
まさに透明CDケース一枚分である。
持ち運びには便利だが、どうにも物足りない事この上なしである。
しかしまあこれならば歩行中に職質かけられても、同族(?)でもない限りは華麗にスルーされそうである。
裏とか見られれば一発ナンダロウケドネ。
きっちり裸のネエチャンいるし。
とりあえず、内容は面白いことを祈ります。

馬に関しては今週は函館スプリントを予想する予定。
ざっと見る限り、なかなかに決め手にかけるメンバーがそろった模様。
大荒れまではなさそうだが、それなりの配当は期待できそうである。
さて、今回は何連敗まで伸ばせるかなあ?
オラ、なんだかワクワクしてきたぞ!
ということで、予想は日曜日の早朝です。



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