さて、最上である。
現在当方が遊んでいる信長の野望において、最上氏が当初自分を含め三人しか武将がいないというのは以前話したとおりである。
たとえば同様のシナリオゼロにおいて、有名どころの織田氏、今川氏、北条氏、武田氏、毛利氏、長尾氏などは比較的潤沢な人的資源を保有している。
果たしてこの格差はどこに起因するのか?
そのことについていささかなり、思うところを述べてみたい。
もちろん年代当初は最上氏の力などごく微弱なものであったから、ということは否定できない。
そも、最上氏というのはどういった家柄であったのか?
この最上氏、歴とした清和源氏の家系である。
もともとは奥羽探題で清和源氏である斯波氏が大崎氏を名乗り、その庶流である大崎某が羽州の最上郡に居を定めたところから最上氏の始まりとなる。
たとえば、織田信長ははじめ藤原氏を名乗っていたが後に平氏を名乗り、豊太閤豊臣秀吉はえらくなってから自分平氏ですなどと素性のわからぬ不良少年上がりのくせにそんなことをいい出し、徳川氏などは清和源氏でございなどといっているがこれも相当に怪しいものである。
これは中華であっても同様だが、戦国期と名のつく時期には、必ず権力の降下が伴うのである。
将軍家を頂点とした武家社会で考えてみよう。
先ずは最もえらいのが足利将軍家である。
足利将軍から細川氏や斯波氏、畠山氏など、有力な武門の血族が各地の守護や探題などに任官される。
ここで実質的な権力は将軍家→守護大名と降下する。
各守護大名家は京都に居を構え、自分の一門や家来などを現地へ守護代(行政官)として送り込む。
ここでも守護大名→守護代へ権力が降下する。
そして守護代はその家宰へ、そして家宰は自家の家来へと、どんどん実質的な権力が降下してゆき、権力構造のピラミッド上部は形骸化してゆくのである。
これが所謂、教科書で習う下克上というものの本質であり、その際には当然、血統として胡散臭いものも多数台頭するのである。
まあ、あとで必死に取り繕う訳だが。
いささか説明が長くなったが。
つまりはそのあたりの胡散臭い血韻と違い、最上家は中々に由緒正しい血統であるということである。
それがどうしてこのような、配下が二人しかいない(?)ちっぽけな土豪に成り下がってしまったのか。
これは過剰な分割相続による領土争いの激化が原因と考えられる。
室町初期には、本家大崎氏をしのぎ探題を自称するほどの最上黄金期があったようである。
が、兄弟や血族にどんどん領土を分け与え相続させた結果、最上本家の力は見る見る衰微し、血族同士の血で血を洗う抗争が始まるわけである。
これもまた、下克上の一形態と捕らえられなくも無い。
が、当方としては、どうやら室町幕府成立時の足利尊氏のあり方を思い出してしまう。
戦功のあったもの、或いは土着の豪族などに派手に領土を与えすぎてしまったというアレである。
当時は室町幕府自体もそこまでは衰微していなかったし、或いは権力者としての当然のあり方だったのかも知れないが、結局はそんな気前のよさがアダとなり、出羽の一豪族に過ぎなくなってしまうわけである。
そこを、陸奥の伊達氏に大いに付け込まれるのである。
どういうことかといえば、つまりは最上本家は伊達家に取り込まれてしまったということである。
そして伊達家が最上家に頭首として送り込んだのが現在自分がプレイしている現最上頭首、最上義守その人である。
1500年頃の伊達氏は奥羽に覇を唱えた一大勢力である。
その頃には大崎氏のものであった管領職に補任も受けている。
伊達氏とは。
鎌倉初期、奥羽藤原氏との戦争に出た源頼朝に従った藤原氏の某が祖であるとも言う。
が、これも正直とても胡散臭い。
当時の土着の豪族であるかも知れず、血韻的には源平藤橘というように、武門としては清和源氏には比べるべくもない粗末なものである。
このような伊達氏に取り込まれた最上本家の悲嘆はいかばかりであったものか。
後に天文の乱という伊達家の、奥羽全土を巻き込んだ一種のお家騒動により、伊達家は乱離骨灰となり米沢一国に引きこもることとなる。
傀儡であった義守もそのクビキから脱するわけであるが、いかに傀儡とはいえ、このときの最上本家家臣団の怨嗟が独立の基になった感は否めないであろう。
斯様に最上家、山あり谷ありである。
が、最後の一山はやはり出羽の驍将、最上義光の登場であろう。
前回、最上義守の野望でも述べたとおり、この義光、父である義守を隠居させ、頭首の座についている。
これについては親子の仲が険悪になり、天正最上の乱になったといわれている。
が、原因ははっきりしていない。
なぜ、そこまで険悪になってしまったのか?
諸説あるが、一般に言われている義守が兄の義光ではなく弟の義時を溺愛し、家督を彼に譲ろうとしたために義光が武力排除に踏み切った、というのは恐らくはまあ間違いであろう。
この義時という人、実在しないのではないかという説がある。
最上家の消息を伝えるいくつかの史料に、この人の名前が出ていないという事がある。
ある意味センセーショナルな話題のため、もしこの説が事実であったなら恐らくはどの史料にも必ず朱書きされるはず。
が、そのような記述自体もそうは見かけられないというのが実際なのだ。
まあ、確かにあまり外聞のいい話とはいえないので史料で封殺してしまった可能性は否定しきれない。
が、他家の史料では外聞関係なく面白い話ではあるので残されているはず、が、それが見受けられない。
そしてこれが大事なのであるが、最上家の史料というもの自体、伊達系や他家の家譜等を除いてほとんど”残っていない”のである。
しかし、義光が父親を隠居させ、最上の実権を握ったというのは本当であるようだ。
さて、どういうことであろう。
ここで推理してみると、恐らくはこの親子闘争の根底には「独立派」と「親伊達派」という二つの派閥の抗争があったのではないかと見る。
もとより最上義守という人は伊達家より傀儡として最上家に使わされた人である。
彼の権力の源流というものは伊達家より出ており(そもそもが最上における小さな支族の出身である)、独立したとはいえ、伊達家とは緩やかな友好(隷属)関係で国を切り回してゆきたいと考えていた。
そこで現れたのが彼の嫡子、義光である。
長じるにつれ、その優れた資質が顕れ始めた。
優れた体躯、怜悧な頭脳。
そして何より現在の様に伊達家に隷属するをよしとしない考え方、である。
父としては当然看過できない事態である。
そこで義守は幾度も「伊達を頼れ」と教育したであろうことが考えられる。
対する息子義光は断じて父を嫌っていたわけではない。
難しい局面に支族出身の父は、形の上とはいえ独立まで持ってゆき国をまとめたのである。
が、彼の時勢への感覚というものが、伊達に隷属し続けたこの先の最上家の限界というものを見通してしまったのかも知れない。
そして、伊達家の力が大いに弱まっている今こそ、完全なる自立の好機と捉えたのであろう。
かつて伊達家が奥羽に扶植していた力は絶大で、時機を逃せば伊達家はまた力を戻すことも考えられる。
実際、最上家中にも伊達与党は存在する。
当然、周辺諸豪族にも伊達待望論があったと見るべきである。
武士団、というものは常に所領を巡る争いが絶えないため、ある意味大きな力を持った裁定者を必要とするものである。
その後の伊達家の伸張も歴史が証明していることである。
ならばと即位前に独立派を糾合し親伊達派を圧迫、その首魁として国論を完全独立に持っていこうとしたのではないか。
ここまでされては父も黙ってはいられない。
息子の考えを危険なものと判断し、ひそかに廃嫡をすすめ、そして新たな嫡子の選定に入ったのではないか?
ここで更に想像の翼を広げると、或いはその話自体が米沢の伊達本家に聞こえていたとも考えられる。
あくどい考え方ではあるが、伊達としては新たな嫡子に伊達の血族の一人を義守の養子に入れるということも謀ったのではなかろうか?
そのように考えるとこれは伊達家の悪謀の一大スキャンダルでもある。
伊達系の史料にこの周辺の事実が載っていないことにもうなずけるというものである。
当然、義守としてもそこまでのことは望んではいなかった。
自分の息子か、或いは支族の中の良い年頃の子を養子に迎え、速やかに廃嫡を行うはずであったろう。
このあたり、義光の英気を知る父だけに、伊達も絡んでしまい心中複雑であったに違いない。
当然、そのことを義光は察知する。
結果、糾合した独立派による武力蜂起、そして天正最上の兵乱となるのである。
結果から言えば、老臣格の氏家直定が独立派に与力したことにより、決着はあっさりとついた。
義光としても父親をどうこうするつもりはなく、隠居、そして出家して政務に関らぬという誓紙をとり、この一件は落着となる。
穏やかにすごしてくださいという親思う子心というものであろう。
その後はご存知のとおり、最上は関が原後、六十万石弱(実高百万石とも)もの大大名に出世するわけである。
前述したが、最上家に関する史料はほとんど”残っていない”のである。
不幸は江戸初期に最上家が改易されたことであろう。
これは義光の後継者を巡るいわゆるお家騒動である。
父の通った道を息子たちも再び通るわけである。
まあ、ここではそれは置くとしよう。
この御家騒動により、最上家が家譜などを編纂することが出来なかった、あるいはすでにあったものが散逸してしまったというのが、最上の武将が二人しかいないという不幸につながるわけである。
その後、その血統の途絶えるのを惜しいとした幕府により、最上家は一万石の交代寄合としてどっからか引っ張ってきた怪しい血縁者を立て、家を再興することとなる。
が、当然当時のことに詳しい家臣団も離散し、最上のたどってきた詳しい道程なども家譜として編纂されることもなかった。
江戸期に出た最上に関する軍記物はいくつかあるが、どれも史料としては三流のものばかりである。
これはどこかで読んだことだが。
「史料としては当時、尾張とその周辺のみが光の当たるところであり、つまりは文字を読み書きできるという文化の度合いが高かったのであり、また、権力を保持し続けたために史料の散逸が防げたということである。その点においては京都のある山城やその周辺なども同様に日陰の状態であり、尾張兵が流れ込んだことにより人物的にも地勢的にも光が当てられてゆくのである」
歴史は、常に、勝者のものである。
いくら最上が小国とはいえ、代表する人材が二人だけなわけがないのである。
中には政務に長けた人間もいたことだろう。
戦場において、いい働きをした人間も、もっといたに違いない。
が、悲しいかな、歴史に残らなければ我々はそれを知るすべがないのである。
であるからして武将が二人だけなどという悲しい現実に直面せざるを得ないわけで・・・。
とか、野望をプレイしながら歴史に対して思いを馳せたりする一日である。
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