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2008/1/13 人生における、雑感、ボヤキ、など。
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クリスマスを目前に控えた週末の札幌。
私はといえば有馬記念を外し、蹌踉と人波芋洗うが如し狸小路をさすらっていたりした次第である。
ふらふらしていましたよ。
狸ラルズの最上階、イベント会場では年末古本市を開催していた。
先週寄ったときは骨董市だったのだがな。
煎茶の湯冷ましに丁度よさげな、いい味の出た粉引きの片口が非常に気になって買おうか如何しようか相当迷ったりもしたのだが。
値段も5000円と手ごろではあったのだが、給料日前で財布には一万円札が一枚と千円札が数枚程度、泣く泣く断念した苦い記憶がある。
ま、他にもいささか、一人遣いには気持ち大きすぎたきらいもあったので、見送ったというのもあったが。
あとは…トンボ玉が欲しかったなあ。
きらきら綺麗だねえ。
一つ350円で40個入りのセットが手付かずであったので、スゲー欲しくなったりしたのだが。
姪っ子のクリスマスプレゼントとかに、コレあげたら喜ぶだろうなあとか思ったのだが、これもまた経済の壁のまえにあえなく断念である。
ほんと、骨董市とか、金のないときには目の毒だな。
まあ、そんなふうに、結構楽しいイベントをやっていたりす狸ラルズの最上階なのである。


古本市はもうごった煮状態であった。
ざっと見る限り、戦前くらいの和とじの歌集であるとか、普通の文庫本であるとか、乱歩の全集であるとかが無造作に積まれている。
なんだろうねこのホーム感。
結構価値あるげな本もあるし、端から眺めていくといスゲー楽しい。
前述した乱歩の全集セットに非常に心惹かれた私であるが、ふらっと徒歩で寄った身のつらさ、20kgほどもありそうなブツをえっちらおっちら持って帰るのを考えるとゲンナリする。
値段は5000円と相当お手ごろであったし、タクシーを使うという手もないではなかったが、今回は断念である。
で、つらつら眺めていると、宗弘容の『地蔵頌歌』を発見して狂喜乱舞する。
背に若干のスレはあるが、それでも状態は非常に良い。
で、値段は…3000円?高っ!
相場的には1000円~2000円程度だろ?
ただまあ、これほど完品に近しいものなら…アリ、かなあ。
実際、ネットで買えば2000円で手に入っても大判本なので送料見るとそれくらいするだろうしな。
うーん…とひとしきり考えて。
結局、悩むくらいなら買っちまうかと、お持ちかえりと相成った次第である。
これがブツです。



どういう本かといえば、宗弘容という九州生まれのたびびと(!)が、日本各地で撮りためたお地蔵さんの写真集である。
俳人としてはいささかマニアックながら知る人ぞ知る人物で、確か句集も出ていた気がするが、調べなければわからんな。
それら地蔵菩薩の写真に、後段ではそれぞれに句、歌をつけ一つ一つ宗氏の解説がついているのだが、この解説がまたなんとも味わい深い。
日本人が今では失ってしまった、なにか心の裡の湿潤な襞、そういったものを思い起こさせるような、懐かしくも愛しい詩と記述、そして地蔵菩薩の微笑である。
まあ、なんとも心の栄養になりますね。
普通に生きていたらなっかなか出会う機会もないだろうが、もし出会うことがあればお持ち帰りして人生のともがらにしてほしい一冊である。
いいものですよ。
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ま、大方予想通りの桜花賞であった。
良いレースだったのではあるまいかな?
当方の裏本命ヴィルシーナは半馬身差の二着まで。
勝ったジェンティルドンナは岩田君がほぼ完璧といっていい騎乗ぶり、馬もそうだが騎手も誉めるべきだろう。
大一番に強いなあ、岩田君。
穴馬持ってくるタイプの騎手じゃないんだけどな?
3~5番人気の馬を上手に持ってくるタイプというか。
GⅠではなんとも切り難い存在感がある。
さてさて、ジョワドヴィーヴルは残念であったな。
というか、やっぱり減っていたなあ、体。
小さいし、使い減りするタイプだろうなとは思っていたが、今一つ本調子ではなかったのかもわからんね。
次はどうだろうな?
まあ、まだ時間もあるし、追々考えてゆく事としようか。
当方の本命トーセンベニザクラたんは8着まで。
出遅れもあったし、津村君クラスとしてはがんばったほうだと思うよ?
重賞も獲ってるし、次も権利だけは問題ないだろう。
父ダイワメジャーから出る仔はマイラーくさい感じだが、母系がホワイトマズルのわりかし骨の太い血統である、ややズブいところもありそうだし、持ちそうな感じはするのだがな?
少なくとも、マイルよりはいいと思われる。
状態次第だが、次も楽しみにさせてもらうとしようか。
さてと。
次は引き続いて漢クラシック、皐月賞である。
当方の現状での感触としては、前走で人気を落とせばアダムスピークあたりが面白えかなと思っているが。
とりあえず馬体の状態と追いきりを見た上で判断したいなと。
一週前追い切りはなかなかよかったしな、巻き返しを期待したいものである。
相手に関してはボチボチ、さくらと同じくタレントが多いのでね、難しいレースであるとは感じている。
ここから頭一つ抜け出す馬は誰であろうな?
げに楽しきクラシックシーズンである。


現在、当方は伊岡瞬の『瑠璃の雫』を読んでいる。
この人に関しては前作『145gの孤独』が当方としては許し難いほどの駄作だったことから、脳裏から消し去っていた作家名であったわけであるが。
出世作であるところの『いつか、虹の向こうへ』はなかなかに面白い作品であった、が、どこか『家族計画』の焼き直しのような雰囲気が漂っていて首をかしげた記憶がある。
わかる人には、わかります。
えっと、内容的には全く違うシロモノといってもいいのだが、プロットや背景など、なんだかそこはかとなく重なるニオイを感じてしまったのだなあ。
パクリとまではいわんがね?
音楽と一緒である、現代作曲家が現在において、果たして完全に新しいと言える作品を産み出すことができるのか否か。
彼らはそこに苦悩しつつ変調に変調を重ねて不協和音だらけになった曲を産み出し、そしてそれらの中で比較的耳障りの良い代物を作った作曲家が大御所として生き残っていくのである。
まあ、ひり出した某かが果たして百年後あたりに誰かの記憶どころか楽譜でさえ残っているかどうかは、甚だ疑問であるが。
おっと、話がそれたか。
ともかくも、そういった”家計似”ということとそれなりに面白かったことから、平積みになった本作『瑠璃の雫』をみたときは何とかその名を思い出す事が出来た。
そうして、読み込んでいる現在である。
かなり、前2作とは毛色が違う作りである。
というか、なかなかにチャレンジャーだよなと。
子供、異性、トラウマといったテクニカルタームと真正面から取り組んだそのチャレンジャースピリットには素直に感心する。
ただ、どうだろうね。
これならば別段主人公が一人称の女の子ではなくとも良いような気も、しないでも、ない、かな、とも。
所詮書き手は男だからな、なかなか深いところまではつかみ出せないのは致し方なきところだろう。
逆に女女したものだと、ここまで読めない(個人的な拒否反応による)かもわからんしね。
兎も角も、物語としては良く出来ているし、筆も程よく練れてきただろうか。
多作という人ではないが、本作を読ませてもらい、今後が楽しみになってきた作家さんではある。
お勧めできる作品と言ってよいだろう。
機会があれば手にとって頂きたいものである。

近頃とみに思うことがある。
・・・ぶっちゃけこの頃の小説、つまんなくね?


別に、どっかの都知事のようなことを言うつもりは無い。
なんというかね、いっぺんだけ読む分には面白いものは結構あるのである。
例えば、最近読んだものでは、伊岡瞬、小路幸也、堂場舜一、桐野夏生、今野敏、佐々木譲、真梨幸子・・・。
というか、なんか流行作家ばっかりだな。
前述の通りいっぺん読む分にはとても面白いのである。
まあ、そうじゃなければそもそも出版なんかされないよな?
読めないほどつまらない本など無いとか、某先達も言っていた記憶がある。
ただただ、二度目を読もうとはどうしても思えない事が問題だ。
大きな問題の一つとして、物語の構成が序盤にまず伏線を提示、終盤に回収とどんでんを持ってきて『どやー、面白いやろ?』という、あまりにパターン化されたものが量産化され過ぎていることが挙げられる。
そも、ステキ伏線張ってどんでん返しが無きゃ流行作家とはいえない、と言う空気すら感じるこの頃である。
一回読めばもうおなか一杯、ああ面白かったで次など存在しないシロモノと化してしまうのである。


そんなことをふと考え始めたのは、枕もとに置いてあった藤沢周平の『冤罪』を久しぶりにめくったことが発端である。
やっぱ何回読んでも面白え!
治部新左衛門面白いし格好いい!
十数年前に購入した文庫本なのだが、すっかり変色して角も丸くなってしまっているが、どうしても手放せない一冊である。
というか、藤沢周平、山本周五郎商店、柴田錬三郎、池波正太郎などの御大の本は全て、
それを手放すなど と ん で も な い 。
という感じなのである。
昨今読む流行作家の読み物は一度読めばもう十分、古本屋に持っていくのも面倒でダンボールに詰めてごみステーションに置いとけば誰か持ってってくれるだろうという具合であるにも関らず、だ。
なんでかな?


伏線が張り巡らされたものもあるし、どんでんのあるものもある、一概に時代小説だから、ジャンル違いだから、というのは当たらないであろう。
思うに、圧倒的なまでの作家性の違いである。
メフィスト賞について少しばかり調べてみた。
講談社の持ち込みによる新人小説賞であるという。珍しい。
ジャンル問わず、兎も角も面白いが正義というシロモノで、これまで森博嗣や西尾維新などの作家を産み落としている。
ちなみに、真梨幸子もこの賞からデビューという。
受賞メンバーを見て、素直に、たいしたもんだとおもう。
ただ、やはり足りないのだよなあ。
面白い事は確かに正義である。
だが、上記の御大達は面白いのは当たり前な上に、各々圧倒的な作家性という名の個性を築き上げてきたバケモノ連中である。
例えば、上に挙げた四人の作家の短編掌編を一作ずつ四本並べれば、それぞれ読んだだけで誰がどれを書いたのかは一目瞭然だ、別に難しいことではないだろう。
しかし果たして、最前の流行作家で同様なことをして、誰がどれを書いたか、当てられる自信が当方には全く無かったりする。
面白いプロットが立てられれば、物語はそれなりに面白くなる。
ただ、圧倒的な自負を持って、その物語を己の名前によって唯一無二のパッケージングが出来るか否か、そのあたりに違いが現れるのではなかろうか。


あとは物語の力の違いだろうか。
簡単に言えば筆力の違いである。
プロットを読ませるだけではない、物語それ自体を読ませる力である。
また、その辺りにもやはり作家性というものは関係しているようで。
例えば、太宰治がどこぞで愚痴の様に
「作家は生み出した作品だけに責任を負えばよい、それ以外のプライベートなどどうでもいいじゃないか」
とか申していたが、そのとおりと思ってあげたい気分が半分といったところか。
ぶっちゃけた話、当方が『鬼平犯科帳』に読んでいるのは、あまりにも面白すぎるその物語と同時に、池波正太郎という稀代の作家そのものなのである。
確かに面白いは正義だ。
だが、面白いだけを至上としてしまうと、どうしてもたどり着けない地平がある。
これからの作家さんに、そういったものを求めるのは酷であろうか。
これが時代であるのだろうか。
そんなものクソ食らえ、である。
ああ、面白い小説が読みてえなあ。

まだまだ寒いここ札幌である。
ただ、最低は相変わらずマイナス二桁まで行く事もあるが、最高がどうやらプラス付近まで上がるようにはなってきた。
朝晩冷え込むが、昼間活動する分には動きやすいくらいで結構であるかもな。
後少しで三月に入り、身のちぢこまるような寒さともしばらくはおさらば、という事となろう。
せいぜい満喫しておく事としようかな。
まあ、いい加減飽きてきてはいたので、春の日差しが素直に待ち遠しいこの頃である。


過日、近所の本屋さんで一冊の小説を手にした。
幻冬社文庫より出ている、小路幸也という作家さんの『ホームタウン』という小説である。
作家さんの名前自体に聞き覚えはない。
まあ、当方は確かに本はこれでもかというくらい読むほうだが、それでも積極的に情報収集をする人間ではない、流行作家の類には相当に疎いほうであると自認している。
帯の紹介文には『メフィスト賞作家云々』と載っているので、なるほどメフィスト賞の人なのだろう。
メフィスト賞ってなんだ?というのが偽らざるところなのだが。
まあ、どっかの文学賞であるのはまちがいなかろう、なんか聞いた事あるような無いような・・・。
また、『東京バンドワゴンの云々』とも書いてある、それは読んだこと無いが聞いたことはあるね。
まあ、いずれにせよ流行作家であるのだろうなあ、面白ければなんでもいいやと、後ろ書きの札幌の百貨店云々という記述と青春ロードノベルというビタイチわかんねえカテゴライズに惹かれてお持ち帰りする事とした。
ご当地小説万歳である。

さて、読み始めるとこれがまた面白くてとまらねえんだな、実際。
こんなに面白いのは久しぶり、というくらい面白い。
わらっちゃうくらい面白い。もうべた褒めである。
文章自体はとっつきやすいが、当方としては慣れるまでちと読みづらかったところはある。
なにせ主人公の一人称視点、口語調の文章で物語は延々語られていく、むつかしいという事は無いがこういうのはあまり相手にしないのでいささか面食らう。
しかし、慣れさえすればあとはひたすら引き込まれる。
後ろ書きにあるとおり、家族の絆を描いている作品であるが、そのものズバリの直球ではなく、ミステリ仕立てにしているのが心憎い。
また、デパートの探偵という主人公のありよう、またその生い立ちや辿ってきた人生、妹との距離感など、非常にプロット組みが巧みな作家さんであると感心する。
このプロットだけで作品は七割がた成功しているようにも思う。
気が付けばもう夜半、結局飯も食わず風呂にも入らず、読みきってしまった当方である。

さて、家族の絆を描いた作品であると前述したが、それもあるがむしろ他人との絆を描く、という事こそがこの作品の本筋であろう。
主人公はいろいろ複雑怪奇なものを胸の内に秘めながら、それでもさまざまな良い人たちと絆を結び、それを深めていく。
どちらかといえばそう言った絆なるものに懐疑的であるにも関らず、である。
図らずも某登場人物が言った「坊ちゃんだな」との言葉どおり、まさしくいいところの坊ちゃんなのである。
であるから人も集まる、人に好かれる。
読んでいるときは面白すぎて気にならなかったが、まあある意味この主人公は非常にチートくさい。
どこぞのエロゲの主人公のように完璧超人。
故にかな、この物語を示唆に富んだ、心に迫る良書、とは思いたくない思えない。.
辛く言えば、こんなんチート主人公の主人公ぢからによって、周りの人間が誑されているだけのいわば非常にご都合的な童話のようなもの、である。
どのように読もうが本人の自由であろうが、何にも考えずに読んで一本の物語としてみたとき、このお話は非常に面白くいいお話である。
設定からして、それ以上を期待してはいけないのである。
読後、ああよかったね面白かったね、それだけで満足するのが正しい本書の用法だ。
それさえ守れれば非常なる名作の称号を与えても良いかもね。

この作品を読んで、大体『東京バンドワゴン』とやらの中身もある程度見えたような気さえする。
間違っていて欲しいがな。
まあ、後日気が向いたら読んでみる事としようかな?
損は無いであろう。場合に拠ってはこの作品ほど楽しめない気もするが、な。

いよいよ十二月に入り、いよいよ冬真っ盛りのここ札幌である。
こうも寒いと何をするのも億劫でな?
家から出るのも仕事に行くのも行ったら行ったで職場から出るのも億劫である。
もーうそのまま職場に住み着いちゃうってのはどうかな。
いつでもあったかそうだしね。
人いない時は寒いのか、そりゃそうだな。
なんてことを真面目に考えている時点でアウトっぽいこの頃である。
ああ、冬だけ沖縄に移住してえなあ。


さて、現在当方の『ローマ人の物語』は文庫版で第十巻、いよいよもって象さん、ルビコンを渡るか?というところである。
ちなみに、当方はこれを読んではじめて知ったのだが、ユリウス・カエサルのカエサルは、フェニキア語で「象」のことを意味するようだ。
ポエニ戦役において、カルタゴの象隊相手に相当に激しくやりあってしかも多大な戦果を挙げた人が祖先にいたらしい。
そうして、ついたあだ名が象さんで、そこからユリウス一門のカエサル家、と名乗り始めたのだという。
是でまた一つ賢くなったのである。
まあ、それはいいとして。以前話した通り、当方は西洋史が全然ダメである。
どれくらいダメかと簡単に言うと、上で出たユリウス・カエサルさんな、この人が何をした人であるのか、全く以ってこれっぽっちも知らなかったりするのである。
名前くらいは知ってるよ?という程度だ。
具体的には「ブルータスお前もか!」といった人、程度には知っている。なんでそんな事言ったのかは知らんがな。
故に、前述したルビコン川云々も川を渡るのがどうしてそんなに大事なのか、全く知らずにここまで生きてきてしまったわけである。
慣用表現としては知ってるよ?なんか大勝負をかける時とかに使うんだよね。
賽は投げられた!とかな。
格好いいよなあ実際。どんなときにそう言ったのかは知らんけども。
とまあ、打ち込んでいてへこんできた当方である。
どんだけ無知なのかと。
まあ、無知であるからこそ知る喜びというものもあるのだがな。
そう考えると存外、悪いものでもないのかもわからんねえ。


というわけで、現在はローマ史のそのあたりを大まかに(まあ、読んでいるのが塩野七生のみなので多少なり偏りはあるだろうが)なぞっているところである。
それにしても、読みやすい代物だ、コイツは。
セーブしてないとあっという間に終わってしまいそうである。
一冊分も200ページ程度と手ごろだしな。
今回はカエサル編ルビコン以前3冊とルビコン以後3冊の6冊買ってきたのだが、果たして今週持つかどうか。
まあ、一緒に沢木冬吾の『ライオンの冬』も買ってきたので、そのあたりも並行して楽しみつつ、セーブしつつゆっくりと、というところである。
現在カエサルさんはガリア征討真っ最中である、今後の彼の活躍に期待しつつ、読み進めていくこととしようか。



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