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2008/1/13 人生における、雑感、ボヤキ、など。
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雪のちらちらな、ここ札幌である。
いよいよ来てしまったという感じであるな、実際。
遅かれ早かれとはいえ、それなりに感慨深いものもあるし、勘弁してくれというやるせなさも湧き上がってくる。
根雪にはならんようであるが。
まだしばらくは大丈夫そうである。
さて、先週の競馬はなんと当方の本命サンテミリオンは18着。ブービーである、すげえなある意味。
これはもう少しかかるかなあ、少なくとも次やその次という感じはしないね。
まだ4歳だし、気楽にやればいいさ。機会があったらどこかでもう一度狙ってみたいね。
とはいえ、やっぱアレだな、残業から仕事の谷間の沸いた脳みそでする予想なんてこんなものなんだろうなと。
勝ち馬は大外引いたスノーフェアリー。やっぱりつええのだなこの馬、ちょっとびっくりである。
ローテも厳しいし、これ以上上がり目は厳しいとも感じるので、流石に次は狙い辛いのだが。案外、あっさり勝っちゃったりしてな?ジャパンカップも。
2着は力差もあまり感じさせないアヴェンチュラの好走、夏場の成長と秋華賞の勝利はどうやらフロックではないようである。
この後はどっか使うのかな?なんだかんだ夏から使ってきている馬なので、休養で春に備えるのもいいかもね。
3着アパパネは順当だろう、有馬あたりの巻き返しに期待したいが、まあ距離の問題もありそうなので難しいかな?
案外JCあたりにぶっつけてくるかな?
人気落とすようなら面白いかもわからんね。
イタリアンレッドはあんなもんだろうな。また来年というところかね。
ちょっと重賞勝ちすぎた感はあるしね、これから斤量も重くなるだろうし、勝ちづらいレースが続きそうではある。
夏さんざん稼いだだろうし、まあいいんじゃね。
あとは・・・ホエールキャプチャか、結局馬券にも絡まず掲示板確保かあ。
ああいうタイプの馬はなあ、どっかで歯車がかみ合うとGⅠなんかでもポンポン連勝しちゃったりするのだがな。
出来るならば、その波を逃さず捉えたいものであるが。ま、難しいだろうな。この馬もまた来年といったところか。
レーヴディソールは無事に周ってきたしよかったんじゃね?
次ね、次。
というわけで、ワイドもまた引っかからず、これで負け犬ワイド収支は-10950円と相成った。
むつかしいな、馬券って。
頑張んないといかんねー。


さて、引き続き塩野七生に夢中である。
現在ハンニバル戦記を読了し、次の『勝者の混迷』に移っている。
ああもったいねえ、もっと味わって読むのだったと後悔しきりのハンニバル戦記である。
とりあえず、塩野先生ハンニバルとスキピオが好きすぎるのは理解した。こう書くと腐女子の走りっぽくなってげんなりすること請け合いである。
そういえば本書の中で、ローマ共和国においては子供がグズると「ハンニバルが戸口にきていますよ?」とか、お母さんが子供を脅す、という下りがあった。
どこにでもあるのだなあ。なまはげとか。
朝鮮半島での「鬼石曼子」みたいなものである、それほどハンニバルに蹂躙された十六年間(!)は、ローマ人にとって強烈な体験であったと言うことなのだろう。
まあ、当方なんかは喜んじゃいそうだがね。「うっそ、ハンニバルってあのカルタゴの雷光が?お通ししなさい」ってな感じで。
むしろ「ハンニバル博士が戸口に来ていますよ?」のほうが。
───マ ジ で す か 超 や べ え !
く、喰われ・・・。
子供ひきつけ起して死んじゃうよね。博士だと。


さて、古い戦記ものであるがゆえに、今一つ正確さに欠くが故のtころであろうか。
ハンニバルの行った包囲殲滅戦について、少しだけ思ったことを書こう。
どうも、数字が極端すぎるように思えてならないのである。
ハンニバル戦記の全体通してそうなのだが、具体的にはトレッビアの戦いあたり、ローマ軍四万に対してハンニバル軍三万八千である。
この戦いは過程を省いて結果だけ見ると、ローマ軍二万が戦死、一万五千ほどが逃げて生き延び、五千が捕虜となったという酷い戦いである。
ただ、ろくろく飛び道具も無く、あるのは槍と剣だけの戦いで、果たして死亡率5割以上とかありえるのかと。
いかに巧みに包囲されたとしても、逆に完全に包囲されたが故にされた側は死兵となるというのが当方というか東洋的な認識であるのだが。
死地に追い込めば兵士は目の前の敵を殺す事しか考えなくなる、故に完全包囲などを行えば逆に包囲側の出血が多くなってしまうものである。
故に、孫子あたりでもあえて逃がして追い首を挙げるのが正しいやり方であるとか言っていたような気が。
例えばこれが近代戦で、アサルトライフルをもって完全包囲、そして十字砲火と言う感じであれば全滅も納得も出来るのだが。
そして、極めつけは何といっても世界史上も有名なカンネの戦いである。
このときはローマ軍八万七千に対してハンニバル軍五万の戦いだ。
結果を見るとローマ軍の惨敗なのだが、これまたローマ軍死者は七万と言う数字に出っくわし、対してハンニバル軍そ死者は五千五百であるという。
すごいな、死亡率80%って。
どんな堵殺場だと尋ねたい。
この数字を本当だと信じれば、まさしくハンニバルという人間は神か悪魔かということとなりそうである。
まあ、このときはハンニバル軍にしても死亡率は15%、恐らく損耗率でいえば20%ほどであるのだろう、数字上は十分酷い損害を出していると言えるのだろうが。
実際のところはどうだったのだろうね。
昔の事だけに、極端な誇張が無かったとはいえないだろうが、こんな戦いを本当にされたら。そりゃ戸口にハンニバル立ってると言われただけで子供もしょんべんちびって黙ろうというものである。
スゲエな、雷光。
ちなみに、ハンニバル・バルカのバルカというのがフェニキア語で雷光という意味なのだそうな。
これを読んで初めて知った当方である。
いいものですね、読書って。

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先週の競馬、アルゼンチン共和国杯は残念ながら当たらずである。
池江泰寿厩舎という一事のみで敬遠してしまったトレイルブレイザーがまんまと勝ちきり、2着には今更・・・とか言っていたオウケンブルースリである。
まあ、当たらんわな?
そんな1─3番人気の馬連なんて、こっちから願い下げである、すみません強がりました。
うん、人気の割には結構付いたよね、1620円だし。
ま、取れていても100円だろうからな、それほど悔しがるものでもないが。
それにしても、カワキタコマンドの3着には正直驚いたな。
これであの馬10戦連続馬券に絡んでいるのだなあ。
というか、何このヘビーローテーション。
だって10戦前が今年5月15日の新潟春日山特別だよ?
六ヶ月弱で10戦って、しかも複外さないって。
無事是名馬ってレベルじゃねーな。
というか、前休んだのいつだよ。
えーっと・・・去年の8月~10月末まで、三ヶ月弱休養入ってるね。
って、一年つかいっぱかよ!
4歳にしてキャリア33戦って一体。
凄いものであるな、馬も厩舎も馬主も。
稲尾や権藤思い出したのは当方だけであろうか、故障などせず、頑張って生きて欲しいものである。
というわけで、これで負け犬ワイド収支は-9950円。
一歩後退である。


さて、最近の当方の読書についてである。
遂に、長い間の懸案であった、塩野七生の『ローマ人の物語』に手を出すことに。
先週末、札幌駅横の紀伊国屋でとりあえず『ローマは一日にしてならず』文庫上下巻を買ってきて、結局かぶりつきで終わってしまった。
いやあ、おもしろいねえ、本当に。
実を言うと当方、西洋史に関しては全くの無知である。
せいぜい中学の世界史レベルで時間が止まっているのだ、何せ高校はずっと日本史一本だったし、その後大学も世界史の関る事など皆無で、ここまで生きてきてしまったのである。
ダメだねえ、もうね、カタカナの名前が出てくると悪寒が走ったりするのだわ。
ポリビウスとか、エミリアヌスとか、トゥルス・ホスティリウスとかタルクィニウス・プリスコとか言われてもチンプンカンプンどころか拒絶反応ががが。
であるからして、ローマとか言われてもな。
ローマ帝国?東ローマ帝国?神聖ローマ帝国?神聖モテモテ王国!ってなかんじである。
ながい先生ゴメンナサイ。
まさか 共 和 国 だ っ た と は 。
それだけでもびっくりである。
さあ笑え!我が無知を笑うがいいさ!

とまあ暗黒的にファビョってみたりするテストであるが。
実際のところハンニバルとかユリウス・カエサルとか程度しか知らない人間であるので、本にかかれている事柄全てが実に新鮮である。
同時代的に発展したローマ、アテネ、スパルタ、カルタゴなど比較しながら政体の変遷を探っていく試みも面白いし、また

『人間の行動原則の正し手を
宗教に求めたユダヤ人。
哲学に求めたギリシャ人。
法律の求めたローマ人。
この一事だけでも、これら三民族の特質が浮かび上がってくるぐらいである』

など、非常に興味深い考察なども、平易な文章で噛み砕いて書かれており、当方のような西洋史のズブの素人には有難い限りである。
まだまだいっぱい続きがあるかと思うと、ワクワクが止まらないこの頃だったりする。
さて、次は『ハンニバル戦記』であるようだ。
来たね、カルタゴのハンニバル・バルカとローマのスキピオ・アフリカヌスのバトル展開だ。
塩野女史がこれをどのように書くか、今から非常に楽しみである。
近所のレイク柏には置いていないことが判明した現在、また駅まで出て買ってこなければならぬか。
ま、取り寄せもいいのだが、本屋通いは趣味の一つでもあるからな、せいぜい楽しんでくる事としようか。
今年の年末年始はどうやらこの『ローマ人の物語』で決まりである。
読むべき本と出会う事は、実にもって幸せな事である。

今週は近所の本屋で入りたてホヤホヤの堂場舜一『遮断』と、あとノベル版に焼きなおされた京極夏彦『厭な小説』を購入してきた。
厭な小説は後ほど、とりあえず現在ちょこちょこと遮断を読んでいるところである。
抜群に面白いんだけど、あっという間に終わっちゃってなんかもったいないよな、この人の小説は。
ボリュームは十分にあるはずだがな、文庫の厚さを見ても。
文章の軽やかさとっつきやすさというのもあるのだろうが、やはり読ませる力というのがあるのだろうな。
一昨年の暮れだったかな?この人の鳴沢了シリーズに出会って、貪るように読みふけったのは。
幸せだったなあ、いっぱい既刊があって。
まだこんなに・・・とか思っていても、なんだかんだで年末年始の休みで全部読み終わってしまった時のむなしさといったらもうね。
今度はペリーローダンシリーズでも読んでみっか?
終わらなさだけはガチである。面白いかどうかは別として。
SF苦手だしな。遠慮しとこうかな。
兎も角も、出来るだけゆっくり楽しみたいものである。


さて、こないだ発売された浅野里沙子の『闇の仕置人無頼控四 埋み火』と、ようやく文庫カットされた高橋克彦『蘭陽きらら舞』を読んで、改めて時代小説のスバラシさを再確認した感じの当方であった。
この頃は実際ミステリ系ばっかりだったからなあ。
そろそろ、ガツンとくる本格な大長編時代小説を読みたいなあと、そんな禁断症状にも似た飢餓感を覚えてしまったり。
まあ、あれだ。一番いいのは『鬼平犯科帳』シリーズを全部引っ張り出して読み直す事なのだろうがな。
アレ読んだらしばらく鬼平マインドになって日常生活で使い物にならなくなったりするからなあ。
影響を受けやすいゆとり世代の走りである。
矢沢永吉のライブ会場から出てくる人間が全員矢沢んなっとるのと一緒である。な、なんとおそろしい。
と、そんなふうに思いつつ日々過ごしていたら、偶々読んだ新聞に牧秀彦の紹介文が載っていて興味を覚える。
そうか・・・算盤侍か・・・面白そうではあるな。
で、ためしに牧秀彦を一冊近所の古本屋で買ってきました。
その名も『辻風の剣』。
裏書には
「辻番所を預かる留蔵と辻謡曲を生業とする浪人、田部伊織には裏の貌がある。庶民を痛めつける悪党を密かに始末しているのだ・・・云々」
とある。
ああ、よくある仕掛け人系であるな。
剣戟小説も混じっているのだろうか。
で、文庫一冊に三本の中篇が入った時代連作小説である。
早速読み始めると、まあ、面白くない事はないのだが、何と言うか突出した個性も感じられないのだな。
何と言うか、組織立った仕事をしているのではなく、この留蔵さんと伊織さんと、そしてもうひとり若いのの三人で、仲良く悪を懲らしていくさまは、なんだかとっても貧乏臭くて切なくなってくる。
あと、文章もどこかまとまりが悪い。
江戸当時の辻番所のありようであるとか、剣の流派であるとか居合のありようであるとか、そういったハウツー説明文を詰め込んで固めました的な。
ぶっちゃけ娯楽小説としてみると教えたがりが目立ちすぎていただけなかったりする。
どうも素人臭い仕事であるというのが当方の素直な感想だ。
これはハズレ臭いか?
単純に合わなかったということもあるかもわからんが・・・。


とまあ、その程度であればよかったのだが。
この本に納められている連作三本のうちの最後の一本、「仲間なればこそ」と言う奴が実に曲者であった。
つらつら読んでいくと
「憮然と見返す久能に重ねて告げる」
「戸惑う伊織と弥十郎に、憮然と顎をしゃくる」
「憮然と向けてきた伊織の視線を、滝夜叉の佐吉は身じろぎもせずに受け止める」
「留蔵は憮然と一喝した」
「肩を掴んだ手を振り解き、吉松は憮然と向き直る」
とまあ出るわ出るわ、いきなり何を思ったのか憮然と言う言葉のオンパレードである。
しかも全部誤用してるしー!!
多いときでは1ページに二つや三つ出てくるのが困りモノ、もうただただ『憮然』とか言いたいだけなのではという気すらしてくる。
恥ずかしいなあもう。
というか、誤用云々以前にこんな風に言葉をぞんざいに使っている時点で、プロの作家としてどうなんだというお話。

ここを眺めておられる皆さんもご存知であろうが、この憮然と言う言葉は誤用されている事が多いので有名な言葉である。
ちなみに本当の意味は

①呆然と自失する様、がっかりする様。
②あやしみ驚く様。

というものだ。
ま、別段一つ二つ使われていて、その上で誤用している程度であればそう気にはならないのであるが。
こうまで連発されると流石に言葉を扱う上での意識というものを疑いたくなる。
例えば、上に挙げた例であるならば、憤(忿)然などの言葉が適当であるはずだ。
然るに馬鹿の一つ覚えで『憮然、憮然、憮然』である。
酷いものと言わざるを得ない。


言葉というものが、時代と共にその意味も移ろっていくものであるのは理解している。
芸者と言う言葉は、使われ始めたときは一流の武芸者を指す言葉であったという。
それが時代を移すに従い、芸を売って身を立てるもの、つまり現在の芸者さんになったのである。
わかりやすいよね、これなんかは別段構わないと思うのだ。
ただ、憮然と言う言葉に関しては納得が出来かねる理由がある。
そもそもこの憮然の『憮』という漢字であるが、この意味自体が

①心がむなしいさま、失意のさま。
②美しい、みめよいさま。

というものなのである。
つまり、多くに誤解されているように、何かに怒るさまと言う意味など、初めから入り込む余地は存在しないのである。
然るに、この牧ナントカいう輩は、ただ漠然とそう云うものだと思っていたから使うという、およそプロとしてあるまじき思考停止の愚を犯している訳だ。
困ったものであるな。
さて、この本の第一版が出たのが2005年であるとの事だ、果たして彼はここから進境を見せているものかどうか。
いささかの興味は否定出来ないが、もうこうなってしまった以上彼の作品を読む気などさっぱり失せてしまっており。
下調べは大切だなあと、改めて思った出来事であった。
いい時代小説探すのも大変である。

雨ばっかり降っているここ札幌である。
凄かったらしいねえ、紀伊半島のあたり。
札幌も週末は結構凄かったんだが、凄さのスケールが違うといったところだろうか。
家が流されるほどの雨って、正直想像がつかないのだが。
それにしても、いろいろあるものだ、災害の当たり年という奴なのかも知らん。
せめて、行方不明の方々の無事を祈ろうか。


やっつったなあ、またもや。
何って、先週の札幌日経OPである。
いやあ、実のところ、ぱっと見の印象ではゴールデンハインドだったのだよなあ。
そして、最後まで残ったのがメインストリームとゴールデンハインドの2頭で、流石にハインド君は狙いすぎの嫌いを感じて日和ってしまい、現在にいたるわけである。
ダメなんだなあ、勝ち運に見放されてる時ってこういうものだろうか。
レースを見ながら「うわあ」という感じであった、またしても。
ああ、ハインドに◎打っとけば労せずしてワイドも馬連もウッハウハだったのだがなあ。
辛い事や悲しい事ばかりの今生である。
とはいえ、やはり札幌なのだな。
先行有利は動かずである、差し馬なんて全く絡んでこねえしな。
まあ、当方の本命メインストリームなんかは良く伸ばしてはきていたのだがね。
コース次第では秋は面白いかもわからんね、この馬も。
左回りもいい馬なので、アルゼンチン共和国杯なんかに出てくるようならも1回狙ってみたいものである。
ポルカマズルカも状態の良さが如実に出た感じであったが、良馬場であったらひと伸びしてちぎってたかもわからんね。
やはり、上滑りする馬場がやや響いてしまった印象がある。
そして、やっぱりやらかしたコスモヘレノスだ。
まあ、馬券自体全然ダメだったので、この馬がどうでも全く関係ないのだが、一応何かに勝った気分にさせてくれたのは確かである。
大事だよね?気分。
というわけで、これで負け犬ワイド収支は-14690円。
まあ、馬連収支よりは多少マシ、か・・・。


さて、当方は現在ブライアン・フリーマントルの『チャーリー・マフィン』シリーズを再び読み始めている。
というか、先日ようやく全巻が揃ったので、止まっていたところから再開である。
ちなみに、なかなか手に入らなかったのが第6作『亡命者はモスクワをめざす』だ。
というわけで、第5作の『追いつめられた男』を読んでいるのであるが、やっぱりエスピオナージはいいなあ。
このあたり、映像になると途端に駄目なんだがね、当方は。
どうにも荒唐無稽すぎて、楽しめないというところがある。
ジェームス・ボンドにしてもミッション・インポシブルにしてもスパイ大作戦にしても。
オサレすぎてついていけないのである。
人間臭くないというか、まるっきり漫画というか。
それを考えると、このチャーリー君はスゲー人間臭いし、まあ往々にしてダメ人間だし、馬鹿な上司と使えぬ部下に囲まれて、時にはクソ山で七転八倒しながらもひたすら生き延びつづける姿に脱帽である。
ダメ人間だが決して悪い人間ではなく、しかし生き延びるためには近しい人間も平気で嵌めるし、その上で後日思い出してくよくよしたりと、やや分裂気味に忙しい精神状態がタマラナイ。
このシリーズは一作目『消されかけた男』が非常に面白く、またシリーズ通しての白眉でもあると思うが、それ以外のシリーズもいずれも平均的な読み物としての面白さを十分に上回っており、読んで損の無い傑作ばかりである。
これまでエスピオナージを読んでこなかった人にも、入門書としてお勧めできるシリーズである。
恐らく、新潮文庫で『消されかけた男』くらいは重版が続いていると思うので、機会があれば是非手にとって頂きたい。
チャーリーに嵌る事うけあいである。

暑い日が続くここ札幌である。
汁まみれで塩の柱になってしまいそうだ。
こういった炎天下を歩いていると、五分で良いから冬になんねえかな?なんてありえないことを思ってしまうのは当方だけであろうか?
いいや、みんな一度は思ったことがあるに違いないね!
ああ、本当にちょっとだけ、冬になったりしねえかな。
毎度の事とはいえ、やはり夏はキツイ当方である。
さて、先週の競馬もまあ見るところなしであった。
また沈み込んでしまいそうな雰囲気だな。
やっぱ函館記念が、なあ・・・。
未だに引きずっている感じである、女々しい限りだと笑うなかれ。
それほど精神的ダメージは甚大であったのである。
今年もダメなのかなあ、なんてな。
まあ、まだ5分の2ほどは残っているので、ここからがんばって巻き返したいと思っているが。
これで負け犬ワイド収支も-11530円。
暑さに負けず、今週も頑張っていきましょうか。


『剣鬼啾々』は、刹那に生きてそして散っていった、そんな剣士たちの悲哀を描く、笹沢左保氏の傑作短編集である。
先日、何気に寝転がりながら手近にあったこの短編集を開いて目を通していたのだが、とある一編を読み終わりふと考えさせられたのである。
『天に唾を吐く』と名づけられた一編だ。
主人公は美濃神道流の真田主馬。
物語は徳川秀忠の治世であり元和六年、家光が将軍になる三年前である。
当時、当代随一の遣い手、達人、名人とその名声をほしいままにしていた疋田新陰流の春日浮月斎があった。
真田主馬も美濃神道流においては流祖といってよい真田四郎右衛門を父に持ち、また父を凌ぐといわれていた遣い手であり、天下無双といえば浮月斎か主馬かと言われていた。
が、父四郎右衛門が浮月斎と立会い敗れて打ち殺された事により、いやが上にも息子である主馬が挑まねばならぬ事となる。
事は一個の剣客同士の腕比べではない、まともに立ち会っても五分五分であるとは思っているが、名目上でも父の仇をとらねばならぬ身、負ける訳には行かない主馬である。
そこで、浮月斎という人間をまずつぶさに知ることにより、弱点を探り出しそうして確実に勝てる状況を作り出す事とした。
浮月斎のかつての弟子を探したり、或いは彼の親友である柳生兵庫助利厳(尾張柳生の流祖)に当たったりして、八方手を尽くし弱点を探る主馬。
その甲斐あって、どうやら浮月斎は高いところが苦手であるということがわかってきた、ならば高いところで立ち会えばよいと、夕刻、海に向かって日の沈む崖の上を立会い場所に選ぶ。
立会人は柳生兵庫助とその門弟二人。
兎も角も、この立会いは主馬が制し、見事浮月斎を討ち果たしたのであるが、ここで予想外の横槍が入る。
兵庫助が
「策を用いるのは兵法者の常、しかし兵法者は兵法者らしい策を用いねばならぬ。お手前が用いたのは策ではなく、浮月斎を陥れるための罠であった。許すわけにはいかぬ云々」
といい、主馬に切りかかる。
そこで実のところ主馬も高いところが苦手という設定があり、兵庫助は思うところあってそれに気づいており、主馬の首を刎ねるという終わり方である。
最後に兵庫助の
「浮月斎と同様、高いところを苦手としておったのだ。わしはそう看破して試みた。真田主馬は、天に向けて唾を吐いたということになる」
の台詞とともに、むなしさを笑いに紛らした、とあり物語を結ぶ。


結局のところ物語の読み方一つであろうが。
これで、真田主馬と春日浮月斎という二人の剣鬼の生死を描いた物語、とするならばまあそれはそれでいい。
ただ、どうにも気になるのがこの兵庫助である。
まず、策を用いるのは云々の台詞はなんだか非常にしゃらくさい。
大阪夏の陣が終結し、豊臣が滅亡してまだ五年ほどである。
時代的には平和に向かいつつも、未だ戦国の気質を強く残す時代であり、後世徳川の全盛となり儒教を基礎とした武士の面目、筋論などが現れる以前の話である。
柳生という名家のボンにして、御三家尾張松平家の指南役としてのある種の正義感、そして友人を討たれた憤りが言わせた言葉とも取れるが。
しかし、最後の台詞から、兵庫助はどうやら両者とも高いところが苦手である事に気づいていたのである。
ならば、実のところ条件はほぼ互角、策としては主馬もリスクを負っており、責められるものではないのは明らかだ。
ならばあの台詞は一体何なのか?
これは言葉に出してその場にいた門弟二人に聞かせるための台詞であると考えるのが妥当であろう。
大義名分が自分にあるということを示すための台詞である。
どういうことか。
つまり、立会い前から考えていたかどうかはわからぬが、立会いが終わって浮月斎が討たれ、その場には当代随一の遣い手が弱点を晒して立っている訳である。
これを討てば、当然兵庫助が当代随一、天下無双となるのである。
そうして、とっさに名目を立て、卑怯とまで言った弱点を突いて、最後に立っていたのは兵庫助という事になる。
剣士というものの生き様、業の深さというものを、終わってみればこの兵庫助が全て体現しているという事になるのである。
剣鬼とは第三の男、兵庫助であったわけだ。


このあたりに気が付いて、やはり笹沢左保という人の非凡さを改めて感じた次第である。
最近は時代小説からやや遠ざかっていたのだが。
やはり、いいものであるな。
残る短編もいずれも見事なものばかりであり、機会があったら是非読んで頂きたい逸品である。



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