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2008/1/13 人生における、雑感、ボヤキ、など。
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現在、海音寺潮五郎の
『孫子』
上下巻を読んでいる。
同時にいくつかのものも読んでいるが、この孫子が抜群に面白いのである。
いくつか感じた事など、書き留めておこうと思う。

氏の小説としては
『西郷と大久保』
『悪人列伝各巻』
『武将列伝各巻』
『日本名城伝』
など、いくつか拾い読みしている程度の当方であるが、その卓越した史観と、和漢の書万巻に通ずる該博な知識に、舌を巻くことしきりである。
その上、語り口がどこかユーモラスであり、文章も平易で読みやすく、とてもとっつきやすい印象がある。
この『孫子』も、氏の晩年の作品であるだけに、易しくそれでいて懐の深い作品に仕上がっている。
現在、この孫子の上巻、孫武編をおおよそ読み終わるところであるが、このあと下巻孫臏編へと続き、今からとても楽しみである。

まず、キャラクターの造形がステキである。
皆さんは、孫武、と言われると、どのようなキャラを思い浮かべるであろうか?
凛々しく、格好よく、百戦して百勝、兵を手足の如く操り、威ありて猛からず、そんなどこぞの少女漫画かジュブナイル小説に出て来るイケメン主人公的なものを想像するのではあるまいか。
どっこい、海音寺孫子は違う。
まあ、言ってみればただの駄目っぽいおっさんである。
やせて背ばかりヒョロリと高く、青白い顔にいくらか赤みがかった髭がぼそぼそと生えている。
性格は至って穏やか、というか気弱であり、かみさんの尻に敷かれっぱなしであり、人の顔色を伺い、争いを好まず、ただただ日々穏やかに好きな研究さえできればそれで幸せという人物である。
小説の中で、この孫武おじさんは、斉という国から呉の国に逃げてきた貴族となっており、斉のなかでも名のある貴族であったために、呉のえらいさんが土地を割いてくれたということとなっている。
その際、むろん仕官を勧められたが、本人がこの性格で官界に住まうのを嫌がったこと、そして見てくれがあまりにショボかったため、相手方としても強いて勧めることもなかったという落ちがつく。
当時孫武十七~八ということになっているが、若いときからそれっくらいオーラを出していなかったという、氏一流の語りである。

さて、そんな孫武おじさんであるが、彼の好きな”研究”というのが言わずと知れた戦術の研究である。
当時は、体系立った戦術というものが存在しなかった時代である、それゆえにこの人、後世戦術の元祖と呼ばれることに相成るのだが、本人はそんな自覚はさらさら無い様子である。
そこそこに金もある地主の有閑おやじとして、農繁期はおかみさんに尻ッペタたたかれて田んぼを見て周り、暇ができるとつかいっぱしリの子供一人連れて、ふらりと古戦場まわりなどして、地形や戦術の研究などをする。
いわば、まるっきりな”戦術ヲタク”というやつである。
鉄ヲタなんかと一緒ですよね、まるっきり。
まあ、さえない上にヲタクであり、この先どんな出会いをしてどのように話が転がるのか、ご存知の人も多いだろうが、それでもこれより先は読んでのお楽しみとさせてもらおう。
気になった方は、是非、探して、読んで、おやじ孫武の生き様を感じて欲しいものである。

さて、内容についてだが。
前述した通り、斬新?なキャラ造形と語り口の巧みさで、小説としてはまず第一級の.面白さに入る。
いくらかやはり史料が古いというところはあるが、それは年代的なもので致し方なかろう。
孫子兵法を書いたのは誰であるのか?
永遠の謎である。
小説中では、氏は便宜上孫武に書かせているが、しかし、冒頭のくだりで当人としては大いに疑問であると述べられている。
氏も述べられているとおり、孫子兵法の書かれた文体的に、孫武の生きた春秋時代の文体ではないということが広く言われている。
さもありなん、当方もそのように思う。
一説には、彼の子孫といわれる戦国時代の偉大な戦術家、下巻の主人公である孫臏が孫武の採った戦術を体系的にまとめたものであるともいわれていたが、それも先ごろに中国のどこぞの墓から『孫臏兵法』なるものがほぼ完全なかたちで発掘された事により、一気に下火となったようである。
自分の名前を冠した兵法書を書くくらいである、先祖のものにかかずらっている暇は無かったであろうというものだ。
ただし、孫武兵法の基となる何かが、脈々と伝えられて、戦国期に何らかのかたちで現在の『孫子兵法』が上梓されたという考え方はできる。
孫武もあるいは、今の形ではなかったにせよ、何らかのアンチョコとなるものを残していたのかも知れない。
その後はまあ、今で言うところの江戸期の『甲州流軍学』や『山鹿流軍学』のような、ある意味『孫武軍学派』とでもいえるようなものが形成され、孫武の残したものを、テクストとして研究しつつ練磨しつつ、後世に伝えていった、というのがありそうなところであろうと思うのだがどんなもんだろう。
そして、子孫である孫臏の時代に彼の存在そのものとして花開くのである。
ロマンだねえ。

そも『孫子兵法』というもの自体が素晴らしい名文であり、それもあって現在まで第一級の兵法書であり、また哲学書として、残りうるだけの牽引力を具えているのである。
一体どういう人がこれを書いたのであろうか、その興味は尽きる事がない。
今後の研究でそれも或いは究明されるかもしれないが、それを楽しみに待ちたいと思う。
 

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「歎異抄は捨てられるか?」
「歎異抄は別格」

このような台詞を聞きつづけてはや四半世紀。
常々
「歎異抄なにするものぞ」
と考えてきた当方、ついに先日、くだんの歎異抄を手にとる機会があった。

歎異抄というと。
親鸞の弟子であるところの唯円なる人物が、親鸞亡き後の真宗の荒廃を嘆き、先人の正しき教えを世に顕さんと筆をとって編んだものである。
内容は、前半が師である親鸞の言行録、そして後半が唯円の「歎異」、つまり異を歎くという、愚痴といえばまさに愚痴を書き綴ったものとなっている。

なかなか。
古い文章なので、読解にも時間がかかってしまい、まだ全てを理解したわけではない。
また、扱う内容が内容だけに、理解の仕方も多様となりそうな気もする。
ただ、やはり仏教という宗教が基になっているだけに、どうしても納得いかないところが多数存在するし、容易くがえんじざるところもまた多い。

歎異抄で有名なところといえば、小学校か中学校の教科書でも教える悪人正機説が存在する。
「善人なおもちて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
というくだりだ。
当方のこの一節の理解としては、ほぼいつぞや学んだところから一歩も出るところではなかった。
つまり、善人ですら極楽浄土へ往けるのだから、悪人が往けないはずはないというものだ。
いろんな考え方が存在する。
生きるに厳しい時代、善人として一生を終えることができた人間でさえ極楽に行けるのだから、故あって悪に身を落とした人間が、極楽に行けぬ道理は無いという考え方。
そもそも”正機”、つまりは自分の悪を見つめ、発心する機会というのは悪人にしか存在しえず、すなわち悪人こそが極楽へゆく資格がある、という考え方。
まあ、様々解釈が存在するだろう。
今回、この歎異抄を読んでの一番の収穫は、この悪人正機に関しての宗教側の言い分を知ることが出来た事である。

浄土真宗という宗教の根本には”他力”なるものが存在するらしい。
つまりは、阿弥陀仏とやらは
「すべての命あるものを救わんという請願」
をしたという。
われわれはそれだけを一筋に信じ、ただただ
「南無阿弥陀仏」
と唱えればよい。
阿弥陀仏に縋る一事だけが、極楽往生する権利となる。
というのが”他力”というものの本質のようだ。

そこで前述の悪人正機に戻る。
善人である事、極楽往生するために善を積む、という行為は、すなわち”自力”の行為である。
これをする事は阿弥陀仏に縋ろうという心の無い、あるいは薄い人間である。
ゆえにこのような善人よりも、ひたすらに阿弥陀仏、すなわち”他力”に縋る悪人こそが、極楽浄土にゆけるという論法となる。

上を以って見るに、つまり浄土真宗の信者が能動的にするべき事は、念仏を唱えることだけのようだ。
なるほど、時代時代に弾圧を加えられたりしたこの宗教の戦いの歴史も頷けるものである。
つまりは、念仏さえとなえりゃ、何してもいいということだもんな。
なんの力も無い民衆にとっては、強烈な誘引力のある宗教といえるだろう。
この教義と、宗教が必ず腐敗し腐臭を放つことを考えると、坊主どもが時を経るに従ってどんなふうになってゆくのか、まあ、火を見るよりも明らか、である。
そも、随分とまあ、腐敗というものに弱そうな教義でもあるしな。
親鸞上人が儚くなった途端、教えが荒れて、その弟子である唯円がこんなものを書かなければならなくなった、という一事のみでも推して知るべしか。
自分でなんとかする、ということを否定しちゃ、人としてはお終いという気もするし。

とまあ、こんな風に、いろいろと考えさせられる読み物である。
これを読むことで、一向宗というものの歴史的な位置について、随分とすっきりして見えてきた、というのが最大の収穫だ。
そう云う意味では、読んでよかった一冊であった。
 

『スウェーデン館の謎』
という小説を読んだ。
これは有栖川有栖の国名シリーズ、文庫版第二巻に当る本格長編ミステリである。
ワトスン役の主人公、有栖川有栖が莫逆のお友達、犯罪学者で名探偵な火村英生にくっついて様々な殺人事件をいっしょに解決してゆくシリーズだ。
この有栖川有栖という人の書く小説は、プロットがカッチリしていてその上文章が平易にして端正、トリックも申し分なしと、肩肘張らずにすいすい読める、当方の大好物である。
これまで、この人の作品は長編シリーズであるところの江神二郎シリーズ他諸々読んではいたのだが、国名シリーズまでは手が回らなかったというのが現状であった。
今回、一念発起してこの国名シリーズを数冊取り寄せて見たのだが、一作目である『ロシア紅茶の謎』が短編集であったのに先ず面食らったものの、それでも読み始めてみるとやはり面白い。
うんうん頭をひねりながら、とすらすら読めてしまうあたり、さすがというほか無し。
そしてこの2作目『スウェーデン館の謎』である。

本編に関しては、あまり語るところはない。
「こうかな?」「いやいや、こうに違いない!」など考えながら、気づけばあっという間に読了してしまっていた。
まあ、当方の推理が穴だらけであった事、いうまでも無かろう。
どうやら、さすらいの名探偵には、どう逆立ちしてもなれぬ人間である事が判明した位である。
本格の好きな人、そうでない人、幅広い方々に読んで欲しい良い作品である。
では、ここでは何を書こうというのか?
そう、タイトルの通り、あとがきや作品解説についてである。

本をそれほど読まぬ人にはピンと来ないであろうが、実はこのあとがき、作品解説をなにより愛する人は結構存在する(のではあるまいかと愚考する、これはあくまで私見である)。
その愛しぶりたるや
「本編などおまけですが何か?」
というほどのものである。
偏愛、というほか無い。
なにせ、まずあとがきを読むのである。
むさぼるように読む。
その上で本編に関する重要なトリックやネタバレを図らずも仕入れてしまっても一向平気の平左である。
作品解説などは往々にして違う作家さんに依頼するものであるから、まあ、このようなあとがき偏愛性の人間にかかっては本編書いてる作家さんこそいい面の皮というやつであろう。
その上でネタバレすら気にしないのだから、正直、泣けてくる。

で、今回のこの
『スウェーデン館の謎』
の作品解説、ご丁寧にも

※文中の後半部分で、本編の謎解きの内容に触れているところがあります。必ず本編をお読みになってから、この解説をお読みくださるよう、お願いいたします。

などという注意書きすら入っている。
当然、当方のようなジェントルの国から紳士を広めにやってきた如き人間は、作家さんへの敬意を込めて、本編を読了したあとのお楽しみ、とする。
読書蛮族であるところのあとがきマニア連中は、恐らく特に気にするでもなくこの解説を読むのであろう。
いや、むしろ逆にいきり立つかもわからん。
「これは我々への挑戦に違いない」
と・・・。
まあ、いい。
何にせよ、本編も読み終わったことだ、だらだらあとがき、解説を読むこととしようか。

・・・。
・・・・・・。
・・・・・・・・・。

んん?
うっわ、何これ?
超面白いんだけど。
さすが宮部みゆきといったところか。
ぶっちゃけ、文章だけ取ったら本編より面白かったかもしれない、とか最前挙げた人種より遥かに失礼なことを考えたとか考えなかったとか。
それにしても、着想が柔軟、その上で伝えるべき内容をしっかりと、それでいて読みやすく易しく伝える技術はさすがである。
ああ、今読みたい作家ナンバーワンとやらいう、とびきり胡散臭い肩書きも、やっぱり伊達じゃねえなあなどと思い知らされる。

宮部みゆきの時代物は、正直好きではない。
なんというか、あの、女性作家特有のねばっこさが、時代物を描かせるとどうしても強調されるように思えるのである。
ほかにも平岩弓枝、宇江佐真理、澤田ふじ子、北原亞以子など、諸々読んだがどうしてもその思いが消せない。
どうにも、女性視点の「男女の機微」というものが、好きになれない、理解しにくい、という苦手意識が根底にあるのかも知れない。
そして、必要以上にそんな「男女の関係」というものに中心を置こう置こうとするところも、か。
まあ、所詮世の中男と女、色恋で一本書けてしまい世の中がソレを求めているのならば致し方なし、というものであろう。
柴錬のニヒルや池波の男っぷりが好きだったりする当方とは、相容れないものであると現在では諦め心地だ。
それでも、彼女の現代小説は結構好きである。
稀代のストーリーテラーの名に恥じぬ名作もいくつもある。
その中でも火車、誰か、などは特にお気に入り。
謎が謎を呼び、どんどん広がってゆき、そして最後にパッ、と収束する様は、まさにこの人にしか出来ない構成であり入神の技術である。

そんな宮部解説を読み、なんとなくマニアの気持ちもわかったような心持が。
そも、このあたりを前述した通りだらだら読むのは嫌いじゃない人間である、決して不倶戴天という訳ではないのだろう。
すこしばかり、気を入れて読むのもいいかもしれない。
そのように思った次第である。

まあ、それでも本編終ったあとだがな。
 

現在、マイケル・シェイボンの
『ユダヤ警官同盟』
を読んでいる。
これがなかなか進まない。
面白くなくはないのだが、やはり翻訳ものということで、文意が取りづらかったり、あるいは読みにくかったり、難解であったりと、まあ、いろいろ大変である。
同様にユダヤ人やその社会を扱った翻訳モノならば、フェイ・ケラーマンのピーター・デッカーシリーズがまず思い浮かぶ。
サンフランシスコ市警のピーター・デッカーが敬虔なユダヤ信徒であるところの若く美しい寡婦、リナに一目ぼれをして、なんとか口説き落とそうとする涙ぐましいお話?なのであるが、起伏に富んだお話とわかりやすく読みやすい語り口が好感の持てる、素直に面白いと言えるシリーズである。
それに比べると、お話の深度やエスプリの利かせ方、扱っているテーマの重量などは『ユダヤ警官同盟』に分があると思うが、それだけにどうしても読み進めるのに疲れてしまう傾向があることは否定できない。
さて、果たして読みきれるのかどうか・・・。
上・下巻の上巻終了間際であるが、正直、心が折れそうです。

まあ、普段ならばそうそう手にとらない類の本ではある。
これを当方が手に取ったのは、明らかに書店の罠であろう。
でーんと平積みにされて、あおり文句のポップがでかでかと立っている。
曰く
「ピュリッツァー賞、O・ヘンリ賞作家が送る、ハードボイルド大作」
帯には
「ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞三冠制覇」
「エドガー賞、ハメット賞最終候補」
???
あれ、どっかで聞いたことあるけど、この賞ってなんだったっけ?
エドガー賞とハメット賞なら所謂ミステリ畑であろうが・・・。
まあ、恐らくはこんだけズラズラ受賞してるんだから、つまらねえってことはないだろうさ、たぶん、とはいえ、O・ヘンリ賞は解からなくも無い、が、正直ピュリッツァー賞の小説部門ってすげえ微妙だよねえ。
なんて考えながら上・下巻を購入したのである。

読み始めると、途端に?マークが脳内に並ぶ。
シトカ特別区?
ドイツに原爆投下?
はて、なんだろうね?
とか考えていると、知人の××氏が
「おー、SFか?珍しいな」
あっ。
そうかそうか、その三冠はSF文学賞か。
ってゆうか、ヒューゴー賞の時点で気づけよ、自分。
いわゆる、歴史改変SFというやつなのだろう。
とはいえ、描かれている内容は純文風ミステリである。
改変のとこだけSFに引っかかったのか・・・。
まあ、SF文学賞とわかっていたら、絶対に手にとらなかっただろうなあ。

しかしまあ、翻訳の難しさもあるだろうが、この内容でSF三冠制覇とは。
よほど本格SF分野が不作だったのだろうことが窺われる。
それとも、SFというものは、当方が思っている以上に懐の広いものなのだろうか。
やはりこの分野は永遠の謎である。
 

なかなか読書の時間が取れない。
暇を見つけてはチョコチョコと読んではいるのだが、そも、まとまった時間が無ければ消化は難しい。
装丁が良かったり、タイトルが気に入ったり、或いは一度は読んでおきたい(より具体的には読んでおくとカッコイイのではないかなどと勘違いしている)などと、無計画に購入した本たちが山となっている。
現状、ひと月10冊まで読めればまだマシなほうで、3~4冊で終わる月も珍しくはない。
移動中、あるいは電車、地下鉄、バスなどの待ち時間を利用してせっせと在庫の消化に励んでいる昨今である。

乱読、耽溺、表現する言葉は様々あろうが。
所謂性癖と言い表しても過言ではあるまい。
本に囲まれていると、無性に落ち着くといった、ある意味非常に作家さんたちに失礼で、厄介な癖の持ち主である。
確か、五木寛之の『知の休日』だったと思うが、3冊の本を残すとしたら、何を残すか、という命題について考えていた一篇があった。
なかなかに深遠なテーマ。
不可能だとわかっていても、ついつい考えてみたくなる。

好きな作家で選ぶと、お話は簡単になる。
司馬遼太郎、藤沢周平、宮城谷昌光というラインナップだ。
だが、3冊となると、なあ・・・。
司馬遼太郎で一番好きなものといえば『花神』であるが、確か文庫カット版は上・下巻であったはずだ。
其れだけで2冊となってしまう。
『竜馬がゆく』『坂の上の雲』なんかはべらぼうに面白いが、またいかにも長すぎる。
藤沢周平はといえば、文庫版の『暗殺の年輪』のなかの『ただ一撃』が白眉である。
その他、短編レベルでは面白いものが無数にあるが、長編となると『海鳴り』上・下巻あたりが大好きだ。
武家ものだと『三屋清左衛門残日録』、『風の果て』上・下巻あたりが好きだが、果たしてベストといえるかどうか。
どれをとっても面白すぎる。
そして困ったのは宮城谷昌光。
『晏子』『孟嘗君』『太公望』『奇貨置くべし』『楽毅』と、どれをとっても残したものに後悔するだろう。
しかもいずれも長編ばかりだし。

上記のものだけでも、すでに混沌としている。
やはり無理な相談か。
どうにもこの3冊を残すというやつは、読書というものに対しての精神性を試されているような気がする。
私のような俗物が、その所有欲や物欲を捨て去って、本当に大事なものをわずか3冊だけ選ぶなど、どだい不可能というものだ。
ただ、これまでで最も繰り返し読み、かつ未だ読みたくなる本といえば一冊だけ”これは”というものが、こんな私にも存在する。
それはなにかといえば、ヴェルヌの『二年間の休暇』である。
少年少女文学として名高いが、あれはいいものだ。
子供の時分に読んでその虜になったが、生涯の友人となりそうである。
ちなみに、間違ってしまうと『蝿の王』になるが、あっちはあまり好きじゃない。

3冊を残して捨て去る事は出来ないが、こんど旅行にでも行くときは一冊鞄に忍ばせるとしようか。
 



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