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2008/1/13 人生における、雑感、ボヤキ、など。
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以前、あまり読書が進まなくなってきたと書いた。
あれを機に、読んだ本をまとめてみたいと思うようになった。
はたして、正確にはどの程度の読書をしているのだろうか?と。
とはいえ、四半世紀分を思い出し、まとめきるのは不可能である。
故に、今年の頭から、読んだ本を定期的にまとめて行きたいと思う。
さすがに一冊一冊、短評を添えるのは大変だ。
時間も無い。
が、これをきっかけに、もう少し大事に読めるようになればよい、と。
そんな風に思う。

ちなみに。
文庫のタイトルの羅列となる。
当方の駄文、読みに来て頂いた方には申し訳ない。
あくまで、自分における便宜のためであること、お断りしておく。


2008初頭より2008/5月末まで。

『償いの椅子』 『愛こそ全て、と愚か者は言った』 沢木冬吾

『ながい坂』(上、下) 『樅ノ木は残った』(上、中、下) 『正雪記』 山本周五郎

『春秋名臣列伝』 『戦国名臣列伝』 『古城の風景Ⅰ』 宮城谷昌光

『笑う警官』 『警察庁から来た男』 佐々木譲

『後藤田正晴と十二人の総理たち』 佐々淳行

『西郷と大久保』 海音寺潮五郎

『だましゑ歌麿』 『おこう紅絵暦』 高橋克彦

『宣戦布告』(上、下) 『情報、官邸に達せず』 麻生幾

『信長の傭兵』 津本陽

『緋色の囁き』 『時計館の殺人』 『最後の記憶』 綾辻行人

『堪忍箱』 『火車』 宮部みゆき

『歴史と視点』 『新説宮本武蔵』 司馬遼太郎

『剣法一羽流』 池波正太郎

『少女コレクション』 『玩物草紙』 渋沢龍彦

『決闘の辻』 藤沢周平

『セル』 『ダークタワーⅠ』 スティーブン・キング

『世界最悪の旅 スコット南極探検隊』 チェリー・ガラード


以上、三十五冊となる。
その他、数冊の専門書とテクスト類などがあるが、あんまり無粋なのでここでは割愛させて頂くこととする。

やはり、意外と読めていないものである。
しかも、案外忘れているものもあって、それほど深く読んでいるというわけでもないようだ。
歴史、時代物に偏っているのは見て取れるが、その他にも色々手を出していて正直ごった煮状態である。
やはり、もう少しだけ、大事に読まねばならぬなあと再確認させられた気分である。

この三十五冊の中で特に印象に残っているもの、面白かった、と心より賛辞を送ることの出来る作品は。
『償いの椅子』 『だましゑ歌麿』 『ながい坂』(上、下) 『火車』 
の五冊であろうか?
特に、ぜんぜん期待していなかった 『だましゑ歌麿』 が兎に角痛快でとてものめりこめたのには、読者冥利に尽きるの一言であった。
機会があれば、是非一度読んで欲しいものである。

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綾辻行人氏の「緋色の囁き」を読んだ。
なかなかに面白かった。
が、ちょっと、終わり方が・・・。
主人公には幸せになって欲しかっただけに、いささかモヤモヤ。
切ない限りである。
逆にいえば、そのあたりが氏一流の匙加減といったところか。
あっさりとは終わらせないぞ、という意思(底意地の悪さ?)を感じさせる。

これまで氏の小説は幾つか読ませてもらっている。
いわゆる「館モノ」シリーズばかりである。
残念ながら「殺人鬼」は投げた。
あれは無理。
面白いと思える感性の持ち主で無ければ、楽しめないものだと思う。
あれこそ典型的な、人を選ぶというやつか。
まあ、自分に、そういった作品への耐性が無いということがわかっただけでも、瀬踏み的な価値はあったのだと思うことにする。

氏の作品の中で、当方が最も好きなものは「十角館の殺人」である。
氏における初期作品だ。
初期作品を好き、というと、恐らく作家としては面白く無いであろう。
その後の進歩にギモンを投げかける行為に等しいからだ。
特に、ある程度継続的にその作家の作品を読んでいる人間がいうのであれば、である。
このあたりはまあ、読者の感性も多分に影響するものであろうが。

一般的に、氏の代表作というと、「霧越邸殺人事件」や「水車館の殺人」などであろう。
確かに”推理小説”という枠に収めるのであれば、作が進むごとにそのトリックなどは緻密さを増し、スケールも大きくなっているように思う。
が、一つの読み物としてみた場合、どうにも装飾が過剰になりがちで、くどくどしく映ってしまうのである。
故に、物語のある時点で、ふと、トリックや犯人についてわかってしまった、腑に落ちてしまった場合。
それ以上読み進める意欲が急激に失せてしまう。
そんなことが往々にしてあるのである。

”新本格”を謳っている以上、止むを得ないところか。
比重としては、どうしても”~について推理する”という方向に傾きがちだ。
その点、社会派ミステリなどは、事件やその背景そのものを題材として扱うので、ある程度の文章的魅力さえあれば、多少道具立てが陳腐であっても(そも、トリックなど出てこないことがほとんどである)何とか最後まで読めてしまうものなのである。
一時期急激に本格ミステリが衰退したのも、或いはそのあたりにも原因があるのかも知れない。

今回読んだ「緋色の囁き」に関しては、推理という要素はほとんど無く、あくまで作者が作り出した物語を楽しむものである。
故に、ある意味、安心して読み進めることが出来た。
どこか浮世離れして現実感の薄い世界観。
次々と殺されていく登場人物たち。
自分が殺したのではないかと恐れ慄く主人公。
情報を小出しにされ、じわじわと形を成して行く真相には、まんまと作者に踊らされていると思いつつも読むのを止められない面白さがある。
時には、このような読み物もいいものだ。
そんな風に思える作品であった。

今年の初めのこと。
某ブロック紙において
”島津の若殿、里帰り”
なる見出しが躍っていた。
九州は鹿児島県、薩摩島津の直系の子息が小樽商科大学の院にて学んでいたらしい。
島津といえば思い出すのが、池宮彰一郎氏の「島津奔る」である。

自分はこれを読んで、一発で島津氏のファンになってしまった。
血腥さまで伝わってきそうな戦場の描写。
濃密な人物の描写。
時の権力者たちに対し、智嚢を振り絞り命を削って薩摩一国を保とうと悪戦苦闘する義弘。
兄義久との確執などなど。
実に読み応えのある内容となっている。

その一篇に、ひとつ、文禄、慶長の役に関する面白い見方がある。
太閤、豊臣秀吉が明、朝鮮に対して起こした戦争(文禄の役)は経済的な政策の一環であるというものだ。
流通を含む経済活動という概念は、江戸も末期になって初めて日本に現われたものだというのが通説である。
故に、経済政策、等という考えはこの時代にはありえないという向きもあろう。
が、かつて秀吉が仕えた織田信長の例も存在する。

越前の対浅倉戦は、精強を誇る上杉氏や武田氏を刺激するリスクを犯しても尚遂げねばならない巨大経済圏の確立のための戦争であったとの見方である。
京を中心として山城含む京畿、本願寺の大阪、同盟国浅井の近江、本国である尾張、美濃、同盟国である松平の三河、遠江。
そして今は無き巨椋池と琵琶湖の水運、太平洋側は屈指の商業港である堺をほぼ手中に収め、後は日本海側の越前浅倉の若狭湾を手に入れれば、おそらくどの戦国大名も経済力と輸送力において織田家を出し抜くことは難しくなるであろうと信長が企図したとの考えである。
さて、実際はそこまでの考えがあったのかどうか、であるが。
随分と早い段階から堺や琵琶湖に目をつけていた信長のこと、或いはという気がしないでもない。
そしてその下で彼のやり方を学んできた秀吉である。
少なくとも過去の主との約束のためとか、そういった感傷的な理由よりもよほど真実味のあるような気がする。

具体的にはこういうことである。
信長の事業を実質引き継いだ秀吉の働きにより、少なくとも国内の戦乱は沈静した。
しかし、百年とも、百五十年とも言われる戦国時代の間、国家の経済というものは完全に戦時経済に置き換わってしまっている。
鉄砲や武器、兵器類はどんなに作っても売れなくなり、基幹産業である農業でも、米を作っても戦争が無いのだから当然消費量は大幅に減少する。
その先にあるのは急激なスタグフレーション。
戦争ではない経済的な地獄が現出することになる。
先ずはこの、戦時によって騰がりに騰がった経済を、ハードランディングさせずに沈静させねばならない。
いくら富裕であったとはいえ豊臣一家での経済力では日本全てをカバーすることなど出来はしない。
とはいえ、国内の各大名は戦争それ自体に飽いている。
再び国内で戦争を引き起こせば豊臣家の足元まで危うくなる。
故に、外に目をむけさせる必要があった。
朝鮮、或いは明国と戦争を起こし、戦闘要員を国外に大量に出す。
それによって各大名家の力をそぎ、且つ軍需を一定に保ちつつ。
朝鮮の資力をある程度収奪し国内経済を潤わせ、且つ朝鮮半島を国外市場とすることにより、国内の経済構造を緩やかに平時経済に置き換えようというのが文禄の役における狙いであったというわけである。
なかなか、面白い考えではなかろうか?

実際、徳川家が江戸幕府を開いた時も、各大名家の取り潰しと同時に道路の整備、宿駅の整備、治水などの水害対策など、公共事業とも取れる巨大工事を、各大名家の持ち出しで行わせている。
参勤交代にしてもそう。
政権確定後、国内を隈なく覆った戦時経済の影に対して、八百諸侯の財布を開かせることにより、効率的に各地域を潤わすことの出来る施策であったといえる。
結局、それらの政策は、大名家の力を削ぐ、という方面にしか光は当てられなかったが。
老中、若年寄など、江戸幕府における政治を切り回す立場のものは、結局内向きの視点しかもてないように出来ていたのである。
理由は、必要が無かったから。
彼らは江戸幕府、ひいては自分を含めた徳川家の安泰だけを考えればよい立場である。
言い換えれば彼らは、そこに暮らす人間の生活など、考えなくても良い立場であった。
ひたすらに慣習を守っていれば、かってに徳川以外の諸大名が弱ってゆく。
実に優秀な制度であったといえよう。

斯様に江戸幕府を例に引いたのも、「島津奔る」において、江戸幕府の創始者である徳川家康もまた、秀吉の狙いに気づいていた一人として描かれているからである。
幕府の礎を築いた家康只一人がその制度の真の意味を理解していたということである。
そのほかには物語の主人公である島津義弘や当代随一の利け者、石田三成なども秀吉の狙いに気がついていた人間として描かれている。
なかなかに興味深い。

氏の遺した物語の中では「島津奔る」が一番好きなものである。
池宮彰一郎という人は、作家としてのデビューは随分と遅かった人である。
六十の坂を越えてから書き出し、「四十七人の刺客」で新田次郎文学賞、「島津奔る」で柴田錬三郎賞と、七十前後で文壇における重要な賞を幾つか受賞している。
不幸にして盗作疑惑などが持ち上がり、その後、執筆のペースは上がることが無かったものの、どれをとっても読み応えがあり、寡作のまま亡くなられてしまったことが実に残念な限りである。

盗作、と言えば嫌悪感を抱く人も多いであろう。
しかし、その線引きは実に難しい。
作家、画家、作曲家など、クリエイティブな仕事をする人間というのは、多くの知識を溜め込まねばならない。
それらの知識を自分の中の抽斗にいったん収め、その上で必要に応じて引き出していく必要がある。
氏の場合、自身もおっしゃるとおり、司馬遼太郎氏に多大な影響を受けた作家である。
文中、幾つかの表現が司馬氏の既出の表現とかぶってしまったのは、抽斗より引き出す際の不幸な事故であったという気がしてならない。
あくまで話の本筋は、氏特有の、オリジナリティーある解釈に仕上がっている。
それだけに、彼の騒動に関しては、一ファンとしてとても悲しく思う。
何か読むものを探している方は、ぜひ読んで欲しい作品である。

高校のときの国語科の教科書であったろうか。
教材として、太宰治の「富嶽百景」があった。

何年か前の夏のこと。
入院中の母を見舞った帰りであった。
なんとも、暑い日の夕方であったと記憶している。

病院の帰り道、大通り五丁目のベンチに座ってボーっと文庫を読んでいた。
確か、司馬遼太郎の「坂の上の雲」だったか。
近くの露店で買ったラムネなぞのみながら、である。
そんな時、観光客であろうか、二人連れの綺麗な女性が声を掛けてきた。
「すいませんが、写真をとってもらえませんか?」

不思議と、このように声を掛けられることが多い。
歩行中、道を尋ねられたりするのはしょっちゅうのことである。
別段、いいひとそうなオーラを出しているわけではない。
また、自分がいい人に見えるかと言われると、鏡を見る限り、どう考えても悪人面である。
まず、目がいけない。いささか目つきが悪すぎる。
若かりし頃など、この目つきの悪さと人より頭一つでかい身長のおかげでずいぶんと悪者や上級生に絡まれたものだ。
呼び出されてボコられたことも何度か。
こんなに草食なのに。
あと、笑顔がいけない。
妙に引きつってゆがんでいるような気がする。
笑顔がいい人をみると、思わずあこがれてしまうほどである。
世の中はなんとも不公平なものだ。
いささか愚痴のようになってしまったが、決して見知らぬ他人に頼られる容貌ではないと思うのである。

ちなみに自分は、デジカメ、などという便利グッズは持ち合わせたことが無い。
知り合いのものを借りて撮影したことも数えるほどである。
もちろん、取扱に熟練しているはずが無い。
そんな自分にデジカメを差し出していい笑顔で
”写真とって”
である。

私は、へどもどした。

まさに、このような表現がぴったりくる状況である。
まわりにはこんなに人がたくさんいるのに。
もっと暇そうなひとだってたくさんいるのに。
なぜ、よりにもよって自分に?
である。

しかし、むげに断ることもできず、結局は応じてしまう自分がいる。
デジカメをひねくりまわしながら。
さながら、新アイテムを渡されたお猿である。
「こ、ここを押せばいいんですね」
いささか、上ずっている。
取り繕った笑顔がゆがんでいるのがわかる。
そして、ファインダーをのぞくと取り澄ました百合の花二輪。
ここにおいて自分は、いつか読んだ太宰の気持ちがありありとわかってしまったのである。

自分が太宰になれないところは、結局ちゃんと写してしまったところ。
取り澄ました姿をみると、思わず
「後ろの噴水だけ写そうか」
などと、悪心は起きたが、草食にはどだい無理な注文である。

あちらは女転がしのプレイボーイ。
いっしょに死んでくれる女さえいる。
対してこちらは一度たりともモテたことも無い只の悪人面である。
なんだかむなしくなってその場を後にした。
夕日がとても赤かったのを覚えている。

時代小説や歴史小説が好きである。
とても、好きである。

宮城谷昌光氏の「孟嘗君」を読んでいて思ったことがある。
管仲、子産、田文、楽毅、他さまざまな才能たち。
結局、彼らの営為はたった一人の天才に敗北したと言える。
いや、天才の作り出したものに、か。
言わずと知れた公孫鞅、商鞅の”法”に、である。

おそらく、中国の歴史上初であろう統一事業を完成したのは秦王政(贏政、始皇帝)である。
では、政は偉大であったのか?
どうであろう。
ある一面においては非常に偉大であったといっても良い。
春秋時代の始まりから数えて550年続いた春秋・戦国時代をたった25年で終わらせた男である。
政が王位に着いた時、確かに秦は中華において最大の勢力を誇ってはいた。
が、他の六雄(楚、魏、趙、韓、燕、斉)もまた、確かに国家として存在していたのである。
面積にして中華のおおよそ六割強ほどは、それらの国々だったのである。
彼の国々を滅ぼさんとする覇気においては、確かに彼は偉大な人間であったといえる。

ただ、戦略的な見地としては。
既に先鞭をつけていた人間がいた。
戦争においては土地を取ることこそが第一義であると考えた人間、范雎である。

それまでの中華における戦争とは
”自国の国威を他国に見せ付けるためのデモンストレーション”
であったといっても過言ではないだろう。
”他国を滅ぼして併呑する”
ではなく
”他国を攻撃してその王なり君主を跪かせ、且つその国家を属国あるいは与党化せしめる”
ことに主眼がおかれていたようである。
そこに一石を投じることになったのが范雎の存在である。

前代の宰相であった魏ゼン(なぜか漢字が出ない)は占領政策もこなしたが基本、国家としての方針は遠攻近攻であった。
近くの国と仲良くし、遠い国を攻めるというものである。
国家の安定、というものを考えればこれもまた悪い考えではない。
ただ、国家の拡大、という観点から見ればあまり効率はよろしくない。当然である。
そんな非効率な部分を切り捨て、戦争というものをドラスティックに一変させたのは范雎の近攻遠交政策であったろう。
それまで点と線のみであった中華における戦争、というものを、平面にまで引き上げたのである。
これにより秦の領土は飛躍的に拡大してゆくこととなる。

そして、范雎よりさかのぼること百年弱、秦による中華統一を決定付けた宰相がいる。
その人こそ公孫鞅、商鞅である。
この人物最大の秦における事業は、弱国秦という国家を強力な法治国家に作り変えたことにある。
覇道の法、といわれるものである。
この法の内容は”超重農主義と牧民思想”と言い表すことが出来る。
徹底的に領民を管理する法である。

重農主義は、わかるような気がする。
だが、牧民思想の方は、果たして商鞅の本意で有ったのであろうか?
確か、史記の列伝であったか、このような逸話が残っている。
うろ覚えでは有るが、大筋は間違っていないだろう。

商鞅が孝公と会談した際、商鞅は始め、帝道について説いた。
すると、孝公は居眠りをしてしまった。
次に会談した際、商鞅は王道について説いた。
孝公は退屈そうに聞き流していた。
最後に、商鞅が覇道について説くと、孝公はにじり寄らんばかりに聞き入り、「これぞ我が道である」と言った。
孝公との会談が終り、推薦者の景監と会うと、商鞅は「惜しいかな」ひとことつぶやく。
その後、商鞅は孝公の覇道に沿う法を編んだという。

この覇道の法は、とにかく中央集権を加速させ、国力、軍事力を高めるための法である。
その為の牧民思想である。
曰く、民は学ぶ必要など無く、法に従って生きれば良し。
曰く、不必要な書物は燃やす。
曰く、男は農業を、女は縫製を行い、よく働くものは賞し、働かざるものは罰する。
曰く、農民は農業だけをしていればよい、商いを行うものは罰する。
つまり、先ず国家あり、民はそこで飼われる家畜というわけである。
結局、この後の秦という国家は、自国からは一人の優れた思想家を出すわけでもなく、他国の優れた頭脳をトップに据えつづけて中華を統一するのである。
商鞅に関しては、この後、孝公の死と共に罪を被せられ刑死するのであるが、商鞅の法だけが残る事となる。
為政者にとってはさぞ、便利な法であったのだろう。

結局、商鞅の法により中華初の統一王朝となりえた秦も、たった一人の巨悪のためにわずか15年で覆轍することとなる。
中国史上、最初にして最悪の宦官悪、趙高の登場である。
だが、一概にそれだけのために秦が滅んだとは言い切れないだろう。
先だって述べたように、結局秦という国は、150年ものあいだ只の一人の思想家も生まなかった国である。
当然、趙高という人物があらわれても、それに対抗し国家を守れる人材など内側に生まれるわけが無いのである。
そして、外に群がり出た人材たちは、当然の如く、決して秦に同情など寄せないのである。
秦に始めて現われた歴史に名を残すほどの人材、それが趙高であったこともまた、実に皮肉である。

商鞅は覇道の法を作った。
しかし、孝公の子の恵文王はその法をもって王を名乗った。
更には贏政は皇帝などというなんともいかがわしい位まで発明してしまった。
覇の法をもって帝となる。
あるいはこの結末も当然のものであったのかもしれない。

 



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