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2008/1/13 人生における、雑感、ボヤキ、など。
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当方は、哲学というものがきらいである。
哲学、それはつまり世の中におけるいらないものの代名詞であるとすら考えている。
昔の異人の言葉なども、あまり好きではない。
特に、フランス流のエスプリの利いた、偉そうでその上ニヒリスティックな警句などは、虫唾が走るほど嫌いである。
昔の大統領や映画スターや物書きがもらした言葉などに、一体どれほどの価値があるというのか?
確かに、これらを巧みに会話の中に混ぜたりすると、どうしてなかなか、頭が良さそうに見えたりする。
また、こういった偉人の言葉というのは、議論や会話の中で提示されたりすると、なかなか反論しづらいものでもある。
そう云うものだ、そして、そういったものでしかないとも言える。
そんなふわふわした、上っ面だけの言葉吐くくらいなら、手を動かし体を使い汗をかけ、といいたい。


そんな哲学嫌いな当方が、現在、何かに挑戦するように『老子』を読んでいる。
なに、ほんの暇つぶしである。
暇つぶしなら、もっとそれに向いたものがあるのではないか?
イグザクトリー、全く以ってそのとおり。
ただ、まあ時としてこういうことをしたりするのだ、半年に一度ほどの周期で。
マゾっぽいとも、思ったりするが、おそらくこれがひねくれ者の血という奴であろうと、もう諦めている。


現在、この老子のテクストを、ざっと一渡り通して読んでみたところである。
意味がつかめなかったり、或いは理解できなかったり、そう言ったところは飛ばし、あらあらと読み下して全体像をつかもうという作業である。
それゆえ、あまり大きな事は言えないが、読み物としては、非常にひねくれて見え、それなりに面白い代物であると感じる。
こういった現在まで続くような偉大なテクストというのは、文章的に完成しており、読ませる力を持ち、その上で面白くなければならぬのだろう。
史記しかり、孫子しかり。
一般的に、儒教のテクストとして中に織り込まれている『春秋』などより、『春秋左氏伝』のほうが、読み物として成立し好まれているのを考えればわかりやすかろうか?
そういう面白さが、この老子には確かに存在する。


ざっと読んで驚いたのが、このテクストから採られたことわざや熟語で、現在も耳にするものが結構あるということである。
さすが、同じ漢字の国のお話である。
有名なところでは

・上善若水 上善は水の若し、最上の善は水に似ている、という意味である。当方の好きなお酒にも『上善如水』というのがある、このことである。

・大器晩成 大いなる器は出来上がるのが遅い。そのまんまである。

・千里行始於足下 千里の行も足下より始まる、という意味。千里の道も一歩からの原典。

・天網恢恢疎而不失 天網恢恢、疎にして而も失わず、の意。天網とは、世の中の道理というものが人を絡めとる様を天の網に例えた言葉、恢恢はとても広大である様のことである。天網恢恢疎にして漏らさずの原典。

これ以外にも、読んでいて「おっ」とか思う語句がたくさんあり、結構興味深かったりするのである。


さて、このようにいろいろ考えながら読んでいるわけだが、そのことをそもそもこの老子というテクストは否定している。
知恵の鋭さをやわらげ、知識を求めず学を棄てれば人は平穏になれる、というのがこのテクストの一つの趣旨である。
まあ、確かに、時には当方もそんな事を思う事がある。
所詮、知識などというものは知恵に積もる錆に過ぎず、そういったものは往々にして物事を見る目をくもらせるのではあるまいか、と。
ひたすらに平穏に過ごしたいならば、知識など求めぬのがよいのだろうと。
しかし、真に残念ながら、我々はもうすでに知恵の実をかじってしまった猿である、一度得た学問や文明というものを棄てることはできぬであろうことも良くわかっている。
その上、このテクストは、そもそも我々平民が読むためのものではないのである。
為政者のための読み物であるのが、ヒシヒシと感じられる。
人民には、知識を与えず腹を満たしてやれ、とか、昔の偉い為政者は人民を聡明にはせず、愚かにしたものだ、とか。
まあ、酷い書かれようである。
そも、老子の書かれた時代は、字を識る階級の人間は、必然支配階級の人間であるのだから、当然のことであるともいえる。
為政者に徹頭徹尾自分の目指した理想を押し付ける、そう言った書物であるといえよう。


まあ、所謂世界が広大無辺で、しかも極めて狭かった頃の御伽噺である。
自分の住む世界以外には国家は無く、外の世界の極めて進んだ文明を持つ異文化から侵略を受けるなど考えられなかった時代の、停滞を理想とした観念的な哲学書、といったところであろう。
そうでなければ、このような観念はとてもじゃないが考えられない。
こちらが停滞してる間に、向こうは着実に進んでいるのである。
しかし、部分部分を読んでみれば、どうして納得できるところも多いのである。
こんな文がある。

・小さい物を大きい物として扱う、少ないものを多いものとして扱う、難しい事はそれが易しい内に手がけ、大きい事はそれが小さいうちに処理する、世の中の難問というのは、必ず易しい事から起こり、世の中の大きな問題というのは、必ず小さな問題から起こるのである。

これなんかは、実に至言であるのではなかろうか?
何度、同じような事を思ったか、ここまで生きてきて数え切れぬくらい後悔を重ねたものである。
いつの世も、人間というのは変わらないものだ。
ついでに、この一文。

・安請け合いすればきっと信用されなくなるし、易しいと見くびることが多ければきっと難しいことが多くなる。

全く以ってそのとおり。
悲しくなるほど自分の小ささがわかってしまう、心に突き刺さる言葉であるといえよう。
まあ、もう少しばかり、この老子と向き合ってみるのも面白いのかも知れぬ。
そんな風に思う、この頃である。

 

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『刑務所のリタ・ヘイワース』
という短編がスティーブン・キングにある。
当方はこの作品が大好きな人間だ。
つい先だっても、とっちらかっていた本の整理かたがた、眠っていた
『ゴールデンボーイ』
を見つけて、整理そっちのけで読みふけってしまった次第である。
なにやってんだか・・・。

キングといえば、やはり本格的なファンならば
・スタンドバイミー
・ダーク・タワー
・グリーンマイル
その他多作な作家さんだけに著名な作品はいろいろあるが、そのあたりを思い浮かべるのだろう。
刑務所の~?あんなもの好きだと言うやつぁ半端マニアだぜ?
そんな声が聞こえてきそうである。
ゴメンナサイ。

とはいえ、キングの作品といえば、なにやらどうしてもイチゲンさんお断りな雰囲気がプンプン漂っている印象が強い。
まあ、主に描いている内容がホラーなため、そんな風に感じてしまうのかもしれない。
ガチガチな超常現象などを扱ったホラーもあれば、ミステリ風のじわじわ来るホラーもあるし、またファンタジー風のホラーもある、一概に”ホラー”のひとくくりで結んでしまうのはこの人に関しては乱暴であるともいえるだろう。
そして、そんなキング作品の中で、ホラーじゃないものの筆頭としては、やはりこの中篇になるのではなかろうか?
幾たび読んでもじわりと泣きそうになる、そんないい作品である。

まあ、至極わかりやすい作品ではあるので、筋を語るのもなかなかに難しい。
興味のある方は是非にも一読して頂きたいものである。、
新潮文庫より『ゴルデンボーイ』というタイトルで発売されている。
現状の版がどうなっているのかはわからんが、昨年あたり古本屋で漁っているときに見かけたこの文庫の表紙は、なぜかティム・ロビンスが雨を浴びて叫んでいる。
そう、この作品は本来
『Different Seasons 恐怖の四季春夏編』
という、キングが発表した邦題”恐怖の四季”という作品の夏編、ゴールデンボーイというのをメインとする文庫である。
この恐怖の四季のなかには、かの有名なスタンドバイミーも含まれており、しかし、四季編全てあわせるとどうしても一冊の文庫では長すぎて収まりが悪くなり、春編『刑務所の~』と夏編『ゴールデンボーイ』を一冊とした分冊形態で発表される事となる、そして『刑務所の~』が、ゴールデンボーイを喰ってしまったということである。
まあゴールデンボーイのほうが、キングの作品としては「いかにも」と言う感じでメイン張るのは妥当であるのは確かである、いかんせん時流ということか。
そう、かの名作映画
『ショーシャンクの空に』
の原作が、この『刑務所の~』なのである。
それで一挙に有名になってしまった観があり、出版社側も「よっしゃ、これで売るぞ」ということとなったのであろう。
こういった悪目立ちは正直好きくないが、それでこれまでこの作品を知らなかった人に読んでもらえるのはいい事だし、それとは別に、それだけ映画が凄かったという証左である。

映画『ショーシャンクの空に』は、文句のつけようが無い名作である。
原作レイプ映画やドラマが氾濫する昨今、原作を出来うる限り忠実に守りながらも、映像としてのインパクトを殺さないように手を加えた神のバランスの体現であると言える。
そんな超・名作映画ではあるが、しかし悲しい過去もある。
映画単品としての興行収入はなんと大赤字。
新人の監督であったり、或いはキングの中でも今一つメジャーでない原作であったり、不安要素が大きかったというのもあるだろう。
1994年封切り、当時は当方もすでに原作は読んでいて好きではあったが、流石に映画となると見に行く気にはならなかった記憶がある。
おっかしいなあ、主演ティム・ロビンスとモーガン・フリーマンで、当時としてもそこそこなキャストだったのだがなあ。
宣伝が悪かったのかな?と。
そんなこの映画が脚光を浴び始めたのが、後に発売されるビデオ版からである。
「これ、スゲーんじゃね?」と。

基本、ビデオなるものはDVDとちがってダビングが主な生産方法である、当然単価も一万二万が当たり前であった。
それでもそれまで洟も引っ掛けなかった映画評論家やら映画マニアたちがこの作品を再評価し、レンタル市場でその評価は確固たるものとなり、やがてDVD時代到来と共に、プレスされた廉価DVDが大量に出回り始め「見るものに困ったらショーシャンク見とけ」的な伝説の作品となった次第である。
昨年、午前十時の映画祭の予備投票で堂々一位を獲得したのもこの作品である。
まあ、確かに、映画館で見てみたいよなあ、と。
当方でもそのように感じる。
あのラストの野原でのモーガンの表情ときたら・・・。
映画祭では、今年十一月に上映という事である。
そのときを楽しみにしつつ、原作未読の方は一度読んでみて映画と比べてみるのも面白いだろう。
所々、原作を知っていたほうが楽しめるところも無いでもない。

まあ、何にせよ、原作ともどもあのウエットさが日本人好みなのであろうと愚考する。
お涙ちょうだい、人情噺に弱いのである。
そう、希望は、実に美しい。
当方も大いに希望を持ちたいものである。
競馬に。

 

最近発売になった堂場舜一の新作、
『漂白 警視庁失踪課 高城賢吾』
を読んで、胸に去来した想念である。
失踪課シリーズもこれで第5作、そろそろ高城君の駄目オヤジっぷりにもこなれたものが出始めてきた様子である。

面白くは、あった。
しかしまあ、なんというか、これは作者の愚痴なのだろうか?
今度の失踪人は作家である。
純文で某の賞を獲り、しかしその後が続かなかった男は、ミステリの方面で新たな才能を開花させ、押しも推されぬ人気作家となる。
そんなキャラクターである。
・・・自虐か?

スポーツ選手とそれを取り巻く環境を題材とした、異色と呼んでいいだろうミステリでデビューした堂場氏である。
その後数作、そういった方向性で書いてはみたものの、どうにも売れ行き的に芳しくはなかった模様、しかし、最近流行の刑事と警察組織を背景にしたミステリに切り替えた途端、あっという間に流行作家の仲間入りである。
この符号が、今作で失踪する作家の背景と見事に合致する。
ははは、ネタにつまったから、普段思っていることをせいぜいぶちまけてやろうか?なんてな。
確かに、氏は随分と筆も速いし、仕事も山ほど抱えているようだ、愚痴の一つもたれたくもなるし、ネタ切れだって起すだろう。
普段われわれとは関係ない世界に生きているであろう作家の魂の叫び、と考えれば、興味深いような気がしないでも、ない。

まあ、とはいえ作家の考えや人間性と作品は全くの別物、切り離して考えるべき事柄ではある。
と、かの太宰先生も言っていた(ような気がする)。
切り離して考えてくれたらいいなあ・・・といった希望的願望だったような気がしないでもないが。
そして、切り離されて産み出されたテキストから作者の考えや思考なぞわかるわけがないというのもまあ当たり前の話。
そう言った意味合において、今作の内容はいささか文章の力というものを過大評価しているように思えてならない。
産み出された文章から作者の思考、性向を探る。
そんなことはどんなえらい学者だろうが自称読書の達人だろうができっこないのである。
自分が『出来る』あるいは『出来た』と思い込んでしまった、と言う事実が浮かび上がる”だけ”である。
そのあたりを考えると、いささか内省的に過ぎる作品と言えなくも無い気がした。

とりあえず、続きを楽しみにする事としようか。
お願いだから、途中で投げ出して失踪とかしないで下さい。

 

以前、何かの機会に
『女性作家の描く小説全般が苦手』
ということを書いた気がする。
その思いは今でも変わっていないが、なぜそうなのか、今回はそれについてより内省を深めてみようと思う。

今回、槍玉に挙げるのは浅野里沙子氏の
『六道捌きの龍 闇の仕置人無頼控』
なる、なんともものものしいタイトルの長編続き物時代小説である。
槍玉、といったが、正直この小説は非常に面白い。
女性作家が苦手な当方も、かぶりつきで読み切ってしまった逸品である。
内容はタイトルの通り、もう”闇の仕置人”というサブタイで理解できるとおりの、所謂トラディショナルな仕掛け人系時代小説である。
さぞや様式美の極、かと思いきや、どうしてなかなか。
主人公板前佐吉の内面描写、状況描写、人物の絡み、情景描写、殺陣描写と、いずれもバランスが良く、それらが女性作家特有の細やかで流麗な筆致でつむがれていく様は思わずうなってしまいそうなほど見事である。
新人作家さん、ということで、表現などやや気張りすぎなところも見受けられるが、それでもこれだけ描ければ立派なものだと愚考する。

さて、苦手のはずの女性作家、それが殊のほか楽しめたのはどうしてだろうか?
ここに至って、この長編の全編に至って、ほぼ主人公佐吉の視点で描かれている事が引っかかった。
これまでは、女性作家といえば
『ねっとりしている』
『くどくどしい』
『男性心理描写が下手』
等など、およそ抽象的なことこの上ない理由での毛嫌いであった。
そこを一歩踏み込んで考える機会が与えられたのである、これは今後の読書人生の事も考えて、しっかり考察せねばなるまい。
そう、主人公佐吉(♂)視点である。
内面描写に関しても必然、ほぼ佐吉のみとなる。
この作者が、取り立てて男性心理の描写に長じているわけではない、むしろ、そう言った意味ではまだまだ力不足、というかこれは性差的なものが大きく、女性には巧まざる描写、というのが不可能なのではなかろうかと愚考する。

なぜか。
それは、女性には男性心理など必ずわからないものだからだ。
およそほぼ共通した人間心理、というものは確かに存在する。
女性、男性問わずの共通した人間としての心理。
そういったものは、人間への観察と洞察、そして自分への深い内省を行う事で、おおよそ大掴みに出来るものである。
しかし、それが異性特有のモノとなると話は違ってくる。
自分の中をどれほど深く内省しても、決して見つからないものだからだ。
これに関しては逆もまた真、である。
女性心理、おんなごころというものは、我々男性には決して理解できない深い靄の向こうがわにある。
良く云う
『女心のわかる男、男心のわかる女』
というのは、あれは嘘。
そんなものサトリノバケモノでもないかぎり、いや、もしそういったものが存在したとしても、意識の表層からの行動原理が読めるだけで、決して心理の深いところは理解できないであろう。
あれがしたい、これをして欲しい。
そう言ったものがわかっても、それがどこから来てどういった理由で来るのか、それは決してわからないのである。
それがわかるように見える異性諸氏それぞれというのは、つまりは膨大な量のケーススタディの中から、その時々に最も合致するパターンを引き出すことに長けた、つまりは極めて勤勉で記憶力の良い人間ということなのである。
それはそれで、人間として非常な美点であると考える。

さて、ここで話を戻す。
今回のこの
『六道捌きの龍』
に関しては、女性作家に珍しく、ほぼ、男性である佐吉の描写に終始している。
完全な主人公視点というわけでもなく、おおよそどのような場面においても神=筆者の三人称であり、主人公視点に見せても、主人公を通した筆者視点となって語っている。
主人公以外の心理描写はほぼ皆無。
つまりは、そこなのである。

おおよそ、これまで当方が読んできた女性作家の方々の作品は、みな当然の如く女性視点からの女性心理を描いてくる作品ばかりであった。
考えれば、それが当方にとってどうしても『きつい』のだ。
結局、女性心理をだらだら描写されても何を言っているのか結局はもやもやと本質もつかめず、その上どこか露悪的な気さえして居たたまれなくなるのである。

男に女性心理はわからない。
前述した言葉である。
しかし、だからこそ我々男性は、その女性のわからない部分にこそあこがれるのではあるまいか?
世の男性作家の作品、当方の好みで言わせてもらえれば池波正太郎や柴田錬三郎、また山本周五郎なども、あくまで容姿から行動に女性の内面を描き出しつつあるところまで踏み込んでフッと引く、そんな描写が非常に巧みでまたなまめかしい。
もちろん、それは大家にしてそれまでの経験より
『描けない』
ということがわかっているということであろうが、描けないし”描かない”というところに女性に対する男性からのあこがれ、つまりはロマンというものを雄弁に語っているようにも見える。

我々が長年連れ添ったパートナーたる女性、妻でも恋人でもかまわないのだが、そう言ったものに日々散々な目に合わされ、またその肉体に飽きが来て、所詮女なんざこんなもの、などいう悟りきったような枯れきったような事をいくらぬかしても、だ。
それでありながら女性というものから離れられない、女性というものに夢を見てしまいあまつさえ不倫などと言うことをしでかしてしまうのは、どうやらこのあこがれ、ロマンあってこそなのだろうと思う。
どれほど深く傷つき、失望し、絶望しても。
一点、どうしても理解できぬところがある。
それこそが女を求めて止まない男のロマンである。

そんなロマンをぶち壊すかのような女性心理の羅列。
どうやら当方が真実苦手なのは、それであるらしい。
今回のことで、どうやら現状ではそのあたりが原因であるということが、ボンヤリながらわかったような気がする。
曖昧なのは、果たしてそれだけか、という尽きせぬ疑団がまだまだありそうな気がするからなのだが・・・。
まあ、今日のところはこのくらいで思考を停止しようと思う。

 

2~3日、急激に冷え込んで、札幌の平野部でも風花が舞う時があった。
どうやら、それが初雪だったらしい。
それでも積もる事も無く、一旦暖かくなったと思ったら、今日当りからまた気温が下がってきそうである。忙しい事だ。
今年は根雪が遅そうだ。

神山裕右著の『サスツルギの亡霊』というミステリを読んだ。
南極が舞台のこのミステリ、読み始めると止まらなくなる、なかなか危険な良作である。
近所の古本屋で、ふと指に触ったこの一冊を抜き出したのであるが、作者も聞いた事がない人物であるし、まあ、それほど期待はせずにめくって見たのである。
作者の神山裕右という人物を知らなかった。
どうやら史上最年少で江戸川乱歩賞を受賞した、期待の新人であるらしい。
2004年というから、今からおよそ5年前、24歳での快挙という事であった。

さて、作品としてはミステリというよりもサスペンスが勝ったものに仕上がっている。
スジはこんな感じだ。

南極越冬隊に参加したとある研究者が、内陸縦断の最中、現地で行方不明となった。
遺体は見つからなかったものの、参加していたメンバーの証言からとくに不審は見当たらす、事故死と認定される。
そしてその4年後の現在、死亡した研究者の義理の弟でプロカメラマンである主人公の元に、一通の絵葉書が届く、死んだはずの義兄からであった。
その事により主人公は事故そのものに疑問を抱き、カメラマンとして次期南極越冬隊に参加する事となる。
そして、その越冬隊には当時の事故を知る人間も複数参加している事を知る事となる。

昭和基地内で起こる殺人と、過去の事件、そして主人公と亡き義兄の過去、それらを交えながら物語は終端に向かっていく。
文章自体はサラリとしていてやや重厚さというものに欠けるきらいはあるが、であるが故に内容の面白さも相俟って、読書の苦手な人でも引き込むであろう不思議な魅力を持っている。
なかなか、凄い新人もいたものである。

乱歩賞というと、過去大勢の著名な作家を輩出している、文芸界の名門である。
ざっと挙げると、高野和明、桐野夏生、栗本薫、あと確か西村京太郎なんかも出身であったような気がする。
錚々たるメンバーだ。
当人の受賞作『カタコンベ』もあわてて購入し読んだが、これもまた面白い作品であり、過去の偉大な受賞作と何ら遜色が無い。

しかし、この2作品を読んで、確かに面白かった事は否定しないのであるが、どうにも後が続かないような不安も在る。
第一作『カタコンベ』は巨大な鍾乳洞の中で遭難者が織り成す、人間ドラマ的なミステリである。
そして今作『サスツルギの亡霊』は舞台が南極と、ありそうでない設定だが、どちらも設定勝ちの印象はぬぐいきれない。
スピード感のあるタッチでアクションシーンもなかなか読ませるものであるが、両作とも同系統の色が強すぎるのである。
人間描写という意味では確かにやや進歩に跡も見られるが、しかし、サスツルギの亡霊のラストはどうしても収束が上手くつかず、急ぎ足でgdgdとなってしまった印象が強い。
そのあたり、若さがでてしまったのかもしれないが、いずれこの作風では長続きしないような気がするのである。

サスツルギの亡霊から随分と経つようであるが、新作発表は聞こえてこないのも気になるところだ。
なかなか作風を変えるというのは難しいものであろうが、新しくなった著者の作品を読んでみたいものだ。
前述した西村京太郎も、ハードボイルド路線から作風をガラリと変えて大家として立ったのである。
まあ、それでも彼に関してはハードボイルド時代のほうが面白かったというのは当方の印象であるのだが・・・。
兎に角、次が楽しみである。
アンファンテリブル、トルーマン・カポーティのようにならないことを期待して止まない。
まあ、あそこまでいけたら、それはそれでたいしたモンなのだが、な。

 



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