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2008/1/13 人生における、雑感、ボヤキ、など。
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時代小説や歴史小説が好きである。
とても、好きである。

宮城谷昌光氏の「孟嘗君」を読んでいて思ったことがある。
管仲、子産、田文、楽毅、他さまざまな才能たち。
結局、彼らの営為はたった一人の天才に敗北したと言える。
いや、天才の作り出したものに、か。
言わずと知れた公孫鞅、商鞅の”法”に、である。

おそらく、中国の歴史上初であろう統一事業を完成したのは秦王政(贏政、始皇帝)である。
では、政は偉大であったのか?
どうであろう。
ある一面においては非常に偉大であったといっても良い。
春秋時代の始まりから数えて550年続いた春秋・戦国時代をたった25年で終わらせた男である。
政が王位に着いた時、確かに秦は中華において最大の勢力を誇ってはいた。
が、他の六雄(楚、魏、趙、韓、燕、斉)もまた、確かに国家として存在していたのである。
面積にして中華のおおよそ六割強ほどは、それらの国々だったのである。
彼の国々を滅ぼさんとする覇気においては、確かに彼は偉大な人間であったといえる。

ただ、戦略的な見地としては。
既に先鞭をつけていた人間がいた。
戦争においては土地を取ることこそが第一義であると考えた人間、范雎である。

それまでの中華における戦争とは
”自国の国威を他国に見せ付けるためのデモンストレーション”
であったといっても過言ではないだろう。
”他国を滅ぼして併呑する”
ではなく
”他国を攻撃してその王なり君主を跪かせ、且つその国家を属国あるいは与党化せしめる”
ことに主眼がおかれていたようである。
そこに一石を投じることになったのが范雎の存在である。

前代の宰相であった魏ゼン(なぜか漢字が出ない)は占領政策もこなしたが基本、国家としての方針は遠攻近攻であった。
近くの国と仲良くし、遠い国を攻めるというものである。
国家の安定、というものを考えればこれもまた悪い考えではない。
ただ、国家の拡大、という観点から見ればあまり効率はよろしくない。当然である。
そんな非効率な部分を切り捨て、戦争というものをドラスティックに一変させたのは范雎の近攻遠交政策であったろう。
それまで点と線のみであった中華における戦争、というものを、平面にまで引き上げたのである。
これにより秦の領土は飛躍的に拡大してゆくこととなる。

そして、范雎よりさかのぼること百年弱、秦による中華統一を決定付けた宰相がいる。
その人こそ公孫鞅、商鞅である。
この人物最大の秦における事業は、弱国秦という国家を強力な法治国家に作り変えたことにある。
覇道の法、といわれるものである。
この法の内容は”超重農主義と牧民思想”と言い表すことが出来る。
徹底的に領民を管理する法である。

重農主義は、わかるような気がする。
だが、牧民思想の方は、果たして商鞅の本意で有ったのであろうか?
確か、史記の列伝であったか、このような逸話が残っている。
うろ覚えでは有るが、大筋は間違っていないだろう。

商鞅が孝公と会談した際、商鞅は始め、帝道について説いた。
すると、孝公は居眠りをしてしまった。
次に会談した際、商鞅は王道について説いた。
孝公は退屈そうに聞き流していた。
最後に、商鞅が覇道について説くと、孝公はにじり寄らんばかりに聞き入り、「これぞ我が道である」と言った。
孝公との会談が終り、推薦者の景監と会うと、商鞅は「惜しいかな」ひとことつぶやく。
その後、商鞅は孝公の覇道に沿う法を編んだという。

この覇道の法は、とにかく中央集権を加速させ、国力、軍事力を高めるための法である。
その為の牧民思想である。
曰く、民は学ぶ必要など無く、法に従って生きれば良し。
曰く、不必要な書物は燃やす。
曰く、男は農業を、女は縫製を行い、よく働くものは賞し、働かざるものは罰する。
曰く、農民は農業だけをしていればよい、商いを行うものは罰する。
つまり、先ず国家あり、民はそこで飼われる家畜というわけである。
結局、この後の秦という国家は、自国からは一人の優れた思想家を出すわけでもなく、他国の優れた頭脳をトップに据えつづけて中華を統一するのである。
商鞅に関しては、この後、孝公の死と共に罪を被せられ刑死するのであるが、商鞅の法だけが残る事となる。
為政者にとってはさぞ、便利な法であったのだろう。

結局、商鞅の法により中華初の統一王朝となりえた秦も、たった一人の巨悪のためにわずか15年で覆轍することとなる。
中国史上、最初にして最悪の宦官悪、趙高の登場である。
だが、一概にそれだけのために秦が滅んだとは言い切れないだろう。
先だって述べたように、結局秦という国は、150年ものあいだ只の一人の思想家も生まなかった国である。
当然、趙高という人物があらわれても、それに対抗し国家を守れる人材など内側に生まれるわけが無いのである。
そして、外に群がり出た人材たちは、当然の如く、決して秦に同情など寄せないのである。
秦に始めて現われた歴史に名を残すほどの人材、それが趙高であったこともまた、実に皮肉である。

商鞅は覇道の法を作った。
しかし、孝公の子の恵文王はその法をもって王を名乗った。
更には贏政は皇帝などというなんともいかがわしい位まで発明してしまった。
覇の法をもって帝となる。
あるいはこの結末も当然のものであったのかもしれない。

 

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