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2008/1/13 人生における、雑感、ボヤキ、など。
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朝刊にて。
茨城の連続8人殺傷事件。
あの事件がどうやら起訴されることになったらしい。
とりあえず不起訴という事態は避けられたようである。
これより長い長い裁判が始まるわけであるが。
相応の量刑を望むものである。

何故この話題を語るつもりになったかといえば、だ。
ごく最近、日垣隆氏の著書
『そして殺人者は野に放たれる』
を読んだからである。

実際、中々にショッキングな内容であった。
刑法第三十九条の内容と解釈、そしてその存在によりいかに多くの殺人者が毎年不起訴となり、無罪となり、或いは刑を減軽され野に放たれてきたか、氏自身が十年の時をかけ取材し続けた多くの判例が記載されている。
何より驚いたのが、何人もの人間を殺害しても不起訴になれば事件自体が”無かったこと”にされ、そうなると報道でも途端に取り上げられなくなること。
そして心神喪失或いは精神障害と認定され無罪となった殺人者が、たった数ヶ月の”措置入院”で世の中に舞い戻ってきているという現実である。

本書でよく使用される言葉に”被害者感情”というものがある。
実は当方、この被害者感情なるものがきらいである。
まして、被害者感情で裁判というものが動かされること、量刑に影響が与えられること、それは断じて否であるとさえ思う。
裁判官はその仕事を全うすればよい。
弁護士も検事もまた然り、である。
その上で適正な裁きが行われ、適正な量刑が課されればそれでよいと思っている。
そこにはこの”被害者感情”等というものが入り込む余地などないと考えていたのである。

が、どうやらこの国の裁判、こと重大な殺人などの裁判においては”適正”などというものははじめから存在しないということが、本書を読んでよく理解できた。
たとえば、である。
五人もの人間を殺害した連続殺人犯がいたとしよう。
彼は事件一週間前に刃物店でランボーの使っていたようなゴツいサバイバルナイフを二本購入した。
一本は予備である。
その上、血液で手がすべるといけないので、犯行前にあらかじめ利き手にサラシを巻いた。
実に用意周到である。
犯行直前、景気付けに持ってきたワンカップを二本、立て続けに飲む。
そして準備万端、町に出て手当たり次第に道行く人に襲い掛かった。
その後は推して知るべしである。
彼はその場で駆けつけた警察官に現行犯逮捕されることとなる。
その後の取調べにおいて彼は正直にその経過を話す。
曰く、むしゃくしゃしてやった。
曰く、ずーっと前から計画していた。
曰く、一週間前にナイフを二本買った。
曰く、犯行前に利き手にサラシを巻いた。
等等、である。
殺害の事実と殺意を認め、殺人で起訴されることとなる。
そして裁判。
ここで問題となるのは”景気付け”で飲んだ二本のワンカップ、である。

被告の担当弁護士はこのような論陣を張る。
「確かに被告の犯行は計画性もあり、残忍を極めた犯行と言えます。しかしながら被告は犯行時、ワンカップを二本、一気に飲み干し、酩酊状態であったことは事実です。このとき被告は異常酩酊の状態にあり、事の善悪是非の判断がつかない心神喪失状態であったことを考慮する必要があります云々」

馬鹿馬鹿しい限りである。
が、しかし、弁護士の腕にもよるであろうが、多くのこういったケースで”心神喪失”は認められぬが”心神耗弱”は認められ、量刑が減軽される。
求刑は間違いなく死刑であろうが、結局、判決は無期懲役どまりとなるのである。
ちなみに、無期懲役の平均年限は十八年といわれている。
十八年で、彼は出てくる事となる。

これならまだマシなほうである。
たとえば、取調べの段階で
「何も覚えていない。何も知らない。俺は電波に命令されただけだ」
とか言い続けると、不起訴となる公算が大きい。
えらい精神科医という人が出てきて
「精神異常です」
とかなんとかいろいろコムズカシイ理屈をつけて言ってしまうからだ。
それを裁判の場でいうとまず無罪となる。
こういった出鱈目が、この国の刑事裁判では営々と行われてきたのである。

冒頭に述べた茨城の連続殺傷事件。
この件も結局法廷では”責任能力の有無”つまりは被告は犯行当時、精神的に正常であったか異常であったか、という争いとなるであろう。
事件の本質や結果をつまびらかにし争うのではなく、専ら犯人のキチ●イ度についてを延々議論する場となるのである。

氏はこのように言う。
この刑法三十九条こそが諸悪の根源である。
かつて法制審議会で三十九条の刑法改正案が出たときも、法務省および法曹界がこぞってそれを叩き潰した。
弁護士は弁護士でいかにクライアントである被告に精神異常のレッテルを貼り付け無罪或いは刑の減軽へ持っていくかが仕事であり、いわば三十九条が飯の種である。
判事は判事でいかに判例に倣い屁理屈をこね、それを適用するかが仕事であり、判例というものに自縄自縛されつづけている。
既成の概念というものから踏み出すことを望んでいないのである。
検事は検事で出世に響くがゆえに負ける勝負はせず、殺人事件であるにもかかわらず至極あっさりと不起訴にする。
彼らに正義などというものは存在しない、と。
つまり、法曹界とは、こと刑事裁判において数十年、刑法三十九条が故に延々と思考停止を続けたボンクラ集団であるということである。

果たして、思考停止というだけで済まされるのかどうか。
どうにもその根底には、官僚的な事なかれ主義が潜んでいるようにも感じられる。
つまり、あらゆる責任を負いたくないという姿勢である。
この国で言うところの極刑とは、いうまでも無く死刑である。
是か非かは別にして、死刑判決を出すということはつまり、人間一人の命を奪う決定をするということである。
そこには重い責任が当然発生する。
それをこそ背負いたくないが故に、精神医学会をも巻き込み、法曹界一体となって三十九条を乱発する体制を作り上げて来たのではないか、と。
仮にもそれを生きるよすがとする人間が、である。
責任の回避のために自身の背負った”正義”の金看板を泥まみれにするわけである。
法のサロン改めこどもサロンあたりがふさわしいと思うのだが、どうか。

無論、氏の著作に書かれている事が全てではあるまい。
世の中には反対の見方というものも当然、存在する。
法曹界には法曹界の言い分というものもあろう。
が、氏の本書で著した裁判の結末や判例が真実であるのならば、正直見誤っていたという他なさそうである。
今後、来年にも裁判員制度が本格的に導入されるわけであるが。
そうなれば当然、裁判の姿というものも変わってこよう。
アレにはアレの問題点も多いだろうが。
少なくとも裁判というもの自体が”時代に沿う”という意味では現在よりはマシなものになるのでは、と感じる。
制度が施行される前に、本書を一読されるのも良いかも知れない。
まあ、裁判員審査時に
「日垣隆の──を読みました」
等といったら、落とされること間違いないような気もするが。
そのとき、対面の法曹界の住人はどういった表情をするのか・・・。
考えるだにワクワクする自分が、いる。
 

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