さて、当ブログも開設より半年を経過しようとしている。
一日、片手で数えられるほどの訪問者しかいないまさに限界集落のごとき過疎ブログではあるが。
このような駄文をこね連ねることしか能の無いここへいらしてくださる方々には、全く頭の下がる思いである。
ありがとうございます。
さて、当方、いい年こいてみっともないエロゲーマーである。
社会の敵、パブリックエネミーと呼ばれそうな存在であることは重々理解している。
エロゲー、といえば。
どこかで見たがまさしく『大人かわいい女子も叫んで逃げ出す究極のハラスアイテム』である。
世の中広しといえどもそのようなものにはそうそうお目にかかることは出来ぬことうけあいである。
が、まあ、それはそれで、エロゲーでしか得ることのできぬ、決して他人には言えぬどこかほの暗い愉悦のようなものはあるので、別段そんな境遇を脱しようとかは思わぬわけであるが。
さて、そんな当方がエロ輔などでゲームについての評価を下すとき。
いくつか重視するポイントがある。
ざっと頭に浮かぶのが、絵柄の好み、CGの塗り、BGMの質、ゲーム性の有無、シナリオの質、量、そして読み物としてのテキストの読みやすさ等である。
さて、今回ここで問題にしようとしているのは、この『ヨミヤスサ』というものについて、である。
読み易さ、とは、具体的にどのようなものであるか。
これはなかなかに難しい。
簡潔に言えば、当ブログの正反対のような文章のことであろうか?
ざっくりと簡潔に。
余分な修飾は極力除き。
読むのに困るような難しい漢字は決して多用せず。
傍らに辞書が必要なほど難解な熟語などを使わず。
気負いや気取りを感じさせる言い回しは控え。
それでいてしっかりと意味や状況を読み手に伝えることのできる文章である。
このように書くと、なにやらクソつまらぬものであるように感じる。
実際に、それ”だけ”の文章であれば、確かにあまり面白いとはいえぬかも知れぬ。
過去に一度、ざっと目を通したことのある、彼の『携帯小説』のようなものを想像してしまう。
紙の無駄遣いかというほど白っぽいページ。
ぶつ切りの文章。
矢鱈と広い行間と、あまりの手ごたえの無さ。
が、実は当方、あれはあれでよいと思っている容認派である。
確かにあれは、自身で読んでも決して面白いとは言えぬシロモノであった。
が、実際にあのようなものが”売れて”いる下地というのは確かに存在するのである。
既存の文芸的形而下には決して収まらぬ、そして既存の権威的視点から見れば全く取るに足らぬイロモノ。
であるにも関らず、それは多くの大衆に支持されたのである。
彼らはコムズカシイ、大上段に構えた、権威によって過剰に修飾され孤高へと追いやられた、逆に言えば狭く深くマニアックに成り往く既存の”ブンガク”というものよりも。
あのような”軽さ”と”簡潔さ”。
ある意味”おおらかさ”を支持したのである。
とはいえ、最近はあまりその存在自体耳にしなくなってきてはいる。
しかしだからといって、彼の携帯小説群を”一過性のブーム”と見るのは早計ではあるまいか。
心せよ。彼らは再び現れる。
トレンドという姿を借りて、我々の目の前に。
一握りの権威によって決定され、大衆的価値観との乖離を進め、狭く深くよりマニアックとなった”ブンガク”をあざ笑うかのように・・・。
と、話が大幅にそれた。
つまりそれほどこの『ヨミヤスサ』というのは大事な要素なのだ、ということである。
内容云々以前に、まず、読む気にさせなければ意味が無い。
そのためにはやはり万人に読みやすい簡潔さ、というのが必要だと思うのである。
権威の上にあぐらをかき、「わかるものだけわかればよい」というのでは、ある意味潔くはあるが、しかし、その道で食っているプロの文章家としてはあまりにお粗末である。
故に、文章的な見地において”人を選ぶ”というのは、全くと言ってよいほど否定的な文言であると言える。
まあ、言ってる本人たちにしてみれば、そこにもまた隠微なほの暗い愉悦のようなものがあるのだろうが・・・。
ただし、そのように言っても、である。
簡潔に、素直に、それでいて力強い。
読むものをあっという間にその世界に引きずり込む。
そんな文章を書けるのは文学史上を見ても極々一握りの存在である。
彼の太宰治もとある短編の中でこのようなことを言っている。
”素朴な、自然のもの、従って簡潔な鮮明なもの、そいつをさっと一挙動で掴まえて、そのまま紙にうつしとること、それより他には無いと思い、そう思うときには、眼前の富士の姿も、別な意味を持って眼にうつる”
もちろん太宰はこのように言ったすぐ後、いやしかしそれでもなどとぐずぐず思い悩む姿をしている。
ここで彼の言っているのはいわゆる文章内における局所的な”単一表現”のことであり、文体自体のことではないであろう。
なるほど一目見て「ああ、太宰だ」とわかるほどアクの強い文章を書く太宰らしからぬ言葉と思う。
が、ある意味、上記のような文章もまた、一つの到達点であるような気がする。
当方がこのようなことを言い出したのは、つい数ヶ月前、一冊の本を読んだからである。
その本のタイトルは
『歴史と視点─私の雑記帖─』
なる、司馬遼太郎氏の著作である。
氏の著作はいくつか読ませてもらっているが。
総じて実に文体が簡潔である。
その上、文章に引き込む力が兎に角凄い。
そしてそれだけではない。
読んでいると必ず、なんと言うか、強烈な光を放つ一文が思いもよらぬところに潜んでいるのである。
上記の著作の冒頭に、このような一文がある。
”人間というのは日常世界のベルト・コンベアの上に載せておくと他の生物同様、いかにもしおらしい。
しかしひとたび─戦争や革命などで─まかりまちがうとなにを仕出かすかわからないバケモノ性をもっている。
バケモノは一面では戦慄的だが、一面ではとほうもなく雄大である。
日常生活にあってその戦慄にあこがれる体質の人は好戦的ドスの利いた畳の上の愛国者になり、雄大にあこがれる人は焦がれるような革命願望者になるのであろう。”
わかりやすく簡潔な文体でありながら、と胸を突く文章である。
この発想、人間への観察眼。
どのように生きればこのような発想に行き着き、どれだけ文章を書きつづければこれほど簡潔でそれでいてすっと胸に入り込む文章を書けるのか。
何気ない文章であっても、その研ぎ澄まされた文体はまさしくある地点にたどり着いたものだけが扱える神韻を伴ってると感じるのはいささか言いすぎであろうか?
で、情けなくも自分の開設半年となるブログ上の駄文を思い出してあろうことか比較までしてしまったのであるこの阿呆は。
ああ、ゴメンナサイゴメンナサイ・・・。
別段文章で食っていこうなど考えたことも無いし。
あちらはプロの中のプロ。
日本中の物書きが一度はその上を通って絶望するであろう伝説の存在である。
こちら側の自分ごときがどうということもないはずなのではあるが・・・。
ただ、なあ・・・。
せめて自分のブログ位は、もう少しわかりやすく簡潔に、面白く書きたいものだなどとふと己を省みてあまりのみすぼらしさに絶望しただけなのである。
生まれて、すいません。
が、あきらめてしまえばそこまでである。
彼の司馬氏とて、その境地にたどり着いた道程を”才能”の一言で切り捨てられるのはさぞや心外であろう。
いずれ、書きつづけていれば、もっと簡潔で、平易で、そして面白い文章が書けるようになる。
それが果たして十年後になるか、二十年後になるか。
五十年後になるか、六十年後になるか・・・。
いや生きてんのか?自分。
てか、そのときもまだエロゲとかやってたらいやだなあ。
いやいや、それはそれで尊敬に値する・・・か?
ちなみに。
司馬さんの『歴史と視点~』はとても面白かったです。
どうしようもなく暗い時代の話であるはずなのに。
どこか不思議なユーモラスさがあり、腹を抱えて笑いました。
もちろん、いろいろと考えさせられることもしきり。
なにか読むものを探している方は、ぜひ、ご一読をお勧めします。
新潮文庫より、出ている、はず。
なにせ古本屋で買ったものだからなあ。
興味があればお探し下さい。
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