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2008/1/13 人生における、雑感、ボヤキ、など。
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ダンジョンマスター(以下ダンマス)をご存知であろうか?
三十年程前に太平洋を渡った先のあちらの某かが作ったロールプレイングゲームである。
当方、このダンマスが大好だ。
あるいは三度の飯より好きかも知れぬ。
今回はダンマスのすばらしさについて力説したいと思う。

前置きとして、少しばかり切ない話をしよう。
スーパーファミコンが華やかなりし時代、当方の持っていたゲーム機はメガドライブであったのを記憶している。
なにせ当方のゲームキャリアの始発点はSG-1000マークⅡである。
生粋のセガっ子と呼んでもさしつかえない。
どこまでもマイノリティである。
一時期はさすがに心が折れそうになった事もあった。
何せ、田舎のこと。
右を向いても左を向いても花札屋ばかりで、セガの本体を持っている人間なぞ、ついぞ存在しなかったのである。
畢竟、友人たちが
「ドラクエ貸してー」
「マリオおもすれー」
とかやってるのを横目にオパオパやアレク、破邪の封印やファンタシースター(無印)、スペースハリアーなんかで一人寂しく遊んでいたものである。
子供としては、精神的に極めて不健康といえよう。
セガユーザーというだけで馬鹿にされたことも時として。
もはやトラウマ寸前である。
中学に上がって母数が増えると、初めてセガっ子の友が出来た。
とはいえ、当方が確認できたセガっ子は一人だけであったが。
どんだけ不人気だよ、セガ。
そもそもその友人も正確には完全なセガー(SEGA+er)というわけではなく、花札屋との両刀使いであった。
そんな友人から勧められて、SFC本体と同時に貸してもらったのが日本ビクター(恐らく)から発売されていた
『ダンジョンマスター』
である。
正直、カルチャーショックであった。
それまで、日本産の、判で押したようなロープレしかプレイした事のなかった自分にとって、それはものすごい体験だったのである。

日本における家庭用ゲーム機でのRPGの始祖鳥といえば、当然ENIXの『ドラゴンクエスト』に行き当たる。
競い合うような形でSQUAREの『ファイナルファンタジー』もあるにはあったが、年代的にはドラクエの方が一年半ほど早く、認知度も売上本数も圧倒的に高い。
ドラクエ以降のRPGは、必ず何らかの形でドラクエに影響されている───そのように言い切ってしまっても過言ではあるまい。
世界を股にかけ、悪と対決する主人公。
時には船に乗り、時には空を飛び、場合によっては宇宙にさえ飛び出してしまう。
頼もしい仲間、楽しい仲間を引き連れて。
時には出会い、別れながら。
大魔王を倒すため、大いなる悪に立ち向かうため、悪い魔物をやっつけるため。
世界中のさまざまな人々から情報を聞き出しながら、与えられたクエストを一つづつ完遂しながら、ラスボスに向かって突き進む。
こういったものが所謂、ドラクエ型の日本的なRPGである。
恐らく、ドラクエを開発した人間は、本場アメリカのRPGにものたりなさを感じたのではなかろうか?

ドラクエが日本におけるRPGの始祖鳥だとすれば、世界のRPGにおける偉大なる始祖はウィザードリィ(以下ウィズ)ということとなる。
ドラクエに先立つ事四年、太平洋のむこうでこのゲームは産声を上げた。
そしていまだにこのゲームには日本だけでなく世界に根強いファンが多いのである。
当然、セガーであるところの当方は『リルガミンサーガ』を所持しているし、遊び尽くした人間である。
残念ながら、ファミコンのウィズシリーズはプレイしなかったが。
が、今の子供達がこのゲームをプレイしたならば、少なくとも面白いと感じる向きは極々少数であろうことも想像に難くない。
何せ人間に厳しいのである。
いろんな意味で。
六人パーティーを組んでいざダンジョンへ。
一番最初に出会った敵がスケルトン×6が二組。
あっさり全滅。
お金半減で死んでしまうとは情けないなどと虫のいい話はどこにもあろうはずがない。
死亡→灰→ロスト。
いっそすがすがしいものである。
が、ドラクエ系RPGに慣れたプレイヤーならば
「なんじゃコリャ~」
で、放棄というのも当然の帰結であろう。
宝箱を空けたらテレポーターの罠で、壁の中に放り込まれる。
余裕でずんずん進んでいったら扉を開けた途端に忍者の大群に出くわし首をちょん切られまくる。
そんな事が日常茶飯事なのである。
不親切といえばそのとおり。
ただ、まあリアルといえばこれ以上のリアルは無い。
人生、一寸先は闇、という奴である。

それはさておき。
ドラクエ系のRPGとの圧倒的な違いは、恐らくドラマ性の有無という一点が最大のものであろう。
ドラクエにはドラマがある。
それはゲーム内における人間同士の交流であったり、時系列にならんだストーリーやイベントであったりするわけだが。
ウィズにはこういったものが一切無い。
会話シーンすらほぼ皆無。
解くべき謎なんかも一切無い。
あるのは地下に広がる広大なダンジョンと、取って付けたような設定的なゲームにおける背景と(それでもいろいろと意味深長なものではあるが)、切った張ったの肉体言語だけである。
恐らく、こういったある種の無味乾燥に日本的なウエットを与えたものが、ドラクエなのであろう。

ウィズによってある種のコンピューターRPGのテンプレートが作成されたことは想像に難くない。
ターン制のバトルであるとか、敵とのエンカウントであるとか、宝箱の陰険な罠であるとか、迷宮内のさまざまなトラップであるとか、装備品を初めとした豊富なアイテムの下敷きであるとか。
そういったシステム的なテンプレに、何か一つ、ダイナミックでドラスティックな新規ゲームとしての売りを付加したい。
そのように考えれば、システム自体を壮大なストーリーの上に乗っけるという試みは、あるいは必然の流れとも受け止められる。
結果として、これは大成功を収めた。
プレイヤーは主人公となり、ストーリーの上に乗っかって冒険をする。
中だるみを防ぐために物語の所々に謎や人間ドラマをちりばめ、謎解きやイベントを配置し、世界の各地で新しい仲間たちと出会い、キーアイテムを集めさせ、最後はラスボスを倒し、そしてお話はめでたしめでたしで大団円である。
そして、この成功を基にして世の中のRPGはすべからくそちら方面にシフトしていくのである。
より凝ったお話を。
より濃密な人間ドラマを。
より広大な世界観を。
ある意味、これは選択的な進化である。
時代が求めた、といっても良い。
それは必然であり、その事自体の善悪是非を問うのはナンセンスである。
が、あえてここらで立ち止まり、云っておきたいこともあるのだ。

ドラマ性、というものを重視するあまり、現在のRPGが失ってしまったものもある。
その一つは”ワクワク、ドキドキする緊張感”とでも云おうか。
現在世の中に氾濫しているRPGはいわば、プレイヤーをドラマという名のベルトコンベアに乗っけるようなものである。
脱落させずに最後までたどり着かせるためには、ストーリー自体の面白さ、完成度、濃密さが必要となる。
で、システムであるところの戦闘は畢竟、お話の腰を折らない程度に難易度を暴落させ、それなりに飽きさせず、楽しければよいという方向を向く事となる。
コンピューターのハード面におけるここ数年の進歩は、それを極簡単に可能にしてしまった。
美しいグラフィック、会話による雰囲気作り、作りこまれた音楽など。
金さえかければ、多くの詰め込みを可能にしたのである。
本来ドラクエあたりでは空気に等しいほど無個性であった主人公もキャラ付けをされ、今ではどこぞのバブリーメーカーあたりは右を向いても左を向いても完全無欠の遠い目をしたイケメンばかりである。
馬鹿馬鹿しい話だ。
お話を読ませるだけなら面白い映画や小説などいくらでも存在する。
イケメンが見たいのならばテレビをつければジャ●ーズあたりのクソジャリはあふれ返っている。
どうにも根本的に間違った方向を向いているとしか思えないのだ。
ここまで行くともはや進化の袋小路としか思えない。
少なくとも、現在のクソつまらないメジャーどころのRPGが、この先ウィズレベルの
”ダンジョンにいるだけで、扉を一つ開くだけで感じる緊張感”
というものを取り戻す事は永遠に無いであろう。

そして、失われてしまったもう一つ。
それは”人間に備わっているイマジネーションというものを刺激するサムシング”である。
自由度ともいえるが、そうとも言い切れない。
先だって、ベルトコンベアにたとえたお話をしたが。
これには、乗っけられている以上、常に同じ方向にしか進む事が出来ないという弊害が発生する。
物語や世界観を細部まで作りこむ事は、すなわち、プレイしている人間の想像力を徹頭徹尾排除する、ということに他ならない。
プレイヤーの想像が入り込む余地が無いということである。
現在にして思うと、ウィズあたりがブームであった頃、その二次創作(ノベル、コミックなど)が、世に多くあふれていたように思う。
ウィズのキャラクターには、人格が無い、グラフィックすら無いのである。
最初期のウィズに関して云えば、その多くを構成するダンジョンすら、白い線で描かれた、いわばとても粗末なものであった。
であるが故に、人間の持つ”想像力”というものを最大限刺激したのである。
キャラクターの一人になりきるも良し。
ゲーム内のほかのパーティーとの因縁を考えるのも良し。
ダンジョンのあり方を想像するのも良し。
リルガミンの街中を思い描くも良し。
ロストしてしまったキャラを思い起こし歯噛みするも良し。
女性キャラを「きっとものすごい美人に違いない」などと妄想を膨らませるもまた良し、である。
其処には現在のRPGでは考えられないほどの、自分の生み出したキャラクターに対する愛着があった。
無限の可能性があったのである。
これはいささかの飛躍かもしれないが。
そういった環境でこそ、良いものを持ったクリエイターが生まれるのではないか。
そんな風に感じる事すら、ある。
少なくとも想像の翼を広げにくい昨今のRPGよりは、より自由で混沌として、人間くさかった、と感じるのである。

さて、いろいろとここ最近のRPGにものいいをつけたが。
ところが、ここに前述のRPG群とはまた違った進化を遂げた鬼子が存在する。
それこそがこれからお話する『ダンジョンマスター』である。
随分と長くなったので、このお話は次回としよう。
 

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