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2008/1/13 人生における、雑感、ボヤキ、など。
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高裁判決が出た。
判決は”死刑”。
件の光市母子殺害事件である。

地裁、高裁と一貫して量刑の中心であったのは被告男性の年令について、である。
犯行の残忍さ、2人を殺しているという事実からいって、もし、成年であったならば文句なしに死刑が確定するところであろう。
だが、判決はいずれも”無期懲役”であった。
十八歳と一ヶ月。
被告の年令である。
最高裁より差し戻し命令が出た瞬間、最高刑の適用は規定路線であったように思う。

事件発生当初より、この話題は折に触れメディアを賑わわせてきた。
ニュース、ワイドショー、新聞報道、果ては半バラエティー番組に至るまで。
ドラマのように仕立て上げられ、電波に乗って繰り返し垂れ流される。
煽り煽られ醜態をさらした阿呆な弁護士数名。
そして更に大量の考えることを放擲し、情動の赴くまま躍らされるテレビの前の子羊たち。
これらも事件の特殊性と重大性に支えられた所産であるか。
世間の耳目にさらされ続けたこの事件にも、一応の決着がついたように思う。
即日上告がなされたようであるが、恐らくは棄却されるであろう。
さて、ここで当方が考えるのは、
”事件の重大性と特殊性、それにより喚起される世論と量刑の関係”
というものである。

果たして、量刑が世論というものに引っ張られる、ということがあるのであろうか?
あるとすればそれは妥当であるのかどうか?ということだ。
幾人かの専門家の意見を読んだが、このような事件の量刑は先ず”無期”がおおむね相当であるという。
前述したとおり一審で無期、二審もそれを支持している。
が、最高裁は高裁へ差し戻す。
抜粋すると
「特に酌量すべき事情が無い限り、死刑を選択するほか無い」
というものであった。
はっきりと「死刑を選択するほか無い」と言い切っている。

「被害者感情を重視した判決」
確かにそうだ。
被害者の父であり夫である某氏は一貫して死刑を求め続けてきた。
氏は、地獄を見たことだろう。
自分の大切な人が2人、無残に殺される。
たとえ未熟な若者の犯罪であったとはいえ、許し難い気持ちになるであろう。
自分には”よくわかる”などという言葉はとても使えぬが、己が身に置き換え考えることならば、出来る。
斯く云う自分も「死刑か、ざまあ見さらせ」という気持ちもある。
が、果たして
”被害者遺族の望む量刑を科す”
ことが法の番人たる裁判官、ひいては最高裁の仕事なのであろうか?
そこに、世論への迎合は無いのであろうか?
死刑とは、読んで字の如く人を殺す刑である。
裁くものが、裁かれるものを殺すか殺さぬかを決定する。
故に、十分に議論を尽くし、己の判断と良識にしたがって量刑をしてもらいたい。
衆愚に踊らされることなく、確固とした信念に従って欲しいものである。

とはいえ、来年より始まる裁判員制度により、その衆愚が裁く側に立つことになる。
今回のような重大事件においての裁判もままあることだろう。
この騒動をみて、どうにも不安に思うのは私だけではないはずだ。
ぜひとも理性的な裁判を、お願いしたいものである。

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