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2008/1/13 人生における、雑感、ボヤキ、など。
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子供の頃、よく言われたものである。
「好き嫌いしちゃ、いけません」
だれしも、親であったり学校の担任であったりあるいは幼稚園の先生であったり、そんな人たちにこのように言われた経験をもっているであろう。
好き嫌いの対象は、往々にして食い物のことだ。
そも、食い物以外で”何かが嫌い”という一事が、問題となることは、ごく稀なケースである。
たとえば、新しい仮面ライダーが嫌いであっても、だれも文句は言わんし、同じクラスの誰々が嫌いであっても、排除しにかからなければ問題にはならんし、勉強が嫌いであっても、一定の水準の成績さえキープしていれば、ほめられこそすれ、くさされる事など無いのである。

では何故、食い物のみが問題視されるのであろうか?
簡単な事だ。
これは教育の理念の問題である。

食は、人間生活の基本である→食い物を粗末にしてはいけない→ゆえに、子供の時分から教え込まねばならない。

という事である。
しかしまあ、なんというか、馬鹿げた話。
当方は、小~中学校時代に給食が存在したのだが、小学生の時などは実際、給食にどうしても嫌いな、食べられないモノが出てきて、そいつを食うまで放課後居残りなんてことが良くあったものである。
食えないものを無理やり食わせることで、果たして食に対する感謝や尊びの感情などが生まれるものであろうか?
甚だ疑問、というか無いであろう。
そんなものは、教育のための教育でしかない。
そんなことをする位なら、一定の食料を持たせて山の中にでも放り込んでやったほうが、食い物のありがたみがわかろうというものである。
まるでレンジャー試験のようだな。

この食に対してのある意味絶対の信仰というものが、いつの時代から存在するのか、そのあたりはよくわからない。
しかし、想像はできる。
はるか昔は、現実問題として、好き嫌いなどというもので食わなければ、簡単に死んでしまう時代があったのだろう。
実際、江戸後期あたりまでは、農村では常に餓死というものがすぐ傍に存在していたのである。
そのような極限の環境で、好き嫌いを持ち出すのはナンセンスというものである。
時代を経て戦中、戦後なども、食い物が無かった話などは、じいさんばあさんおやじおふくろなどからよく聞かされたものである。
そして世の中にモノがあふれるようになったこの時代においても、その、本質を失った空虚な抜け殻だけは、教えとして残ってしまったのである。

考えても見て欲しい。
たといその時々、そのような無意味な教育を施しても、後に自分の稼ぎで食うようになったとき、わざわざ嫌いなものなど選んで食ったりはしないのである。
教育の現場の自己満足、というより他ないだろう。
食い物、あるいはその生産者やまた犠牲になった生き物達への感謝や尊敬などを教えるためには、もっと有効な教育があるはずである。
無能、ここに極まれり、だ。

嫌い、といえば。
当方は、コンビニや飲食店などの廃棄やロスを見て
「アフリカには食べられず死んでゆく子供達がたくさん居るというのに・・・」
とか、さかしらぶってぬかす連中が、反吐が出るほど嫌いである。
まあ、確かに放置してよい問題ではないと思うし、もったいないとも思うのだが、それでも、それとこれとは全くの別問題である。
だったら廃棄になった弁当やらコンテナ船仕立てて冷凍して送ってやれや、やれるものならな。
結局そんなことをぬかしてる連中は、事態への解決策も持たず考えもせず、ただただ思いついたこと聞きかじった事を正しい事の様に錯覚して自分の無能をひけらかしているクズ連中でしかない。

さて、話をもどそうか。
好き嫌いについて、である。
生憎と、当方には、食い物に関する好き嫌いというのはほぼ存在しない。
苦手、というものは存在するが、少なくとも食えないほど嫌い、というものは無いはずである。
そも、食い物ごときで人間関係の円滑さを欠く事がゆるせぬ心の狭い余裕の無い人間なのである。
会食の場では、苦手なものが出ても顔色一つ変えずに平らげるし、勧められたものは何でもおいしそうに食うことができる。
ただ、食い物においても、許せぬものというのは確かに存在するわけで。

例えば。
当方は、納豆が好きである。
納豆だけで、丼三杯はいけるほどだ。
ただし、あの大概の納豆に付属している『納豆のタレ』なるものは、どうしても許容しがたい敵である。
なんだかべたべたに甘くて、不自然な旨みが舌に残って、食えといわれれば食うが、能動的に食うことはまずありえない代物である。
すなわち、そのままゴミ箱行きである。
納豆の食い方にもさまざまあるが、当方の好む方法は、まず味噌汁などの具として使った葱の、残った青い部分を細かく刻んだものを丼に入れる。
そしてそこに納豆を投入し、鰹節(枯節、本枯節などがあれば更にベター)をたっぷりと投入、ガッツリかき回して、最後にざっと醤油をかけまわして喰らうのが現在の俺的至高である。

逆に、嫌いな食い方のナンバーワンはまず砂糖。
こ れ は あ り え な い 。
いやいや、おかしいから、砂糖。
うまいと思えることが不思議である。
次点がマヨネーズ。
まあ、これに関しては好きな人はそれでいいと思うが、どうしてもマヨネーズをかけてしまうとマヨネーズの味しか感じられなくなるというのが難点だ。
なんのために納豆を食っているのか甚だ疑問となる。
納豆嫌いな人にはいいかもしれないね?
お次が芥子。
芥子は、なあ・・・。
べつにいいんだけど、こちらも味消しが強すぎてちょっと物足りなくなるのが難点か。
いずれ、嫌いな人用という気がする。

納豆一つ取っても、たった一人の人間に、これほどの多様な価値観があるのである。
いわんや、食い物全般においてをや。
現在はモノがたくさんあり、多様な価値観が存在する世の中だ。
そのような世の中において、前時代的でカビの生えそうな教育や理念に何の意味があるというのか。
必要なのは、物事の好悪を峻別しきる認識力。
そして、好悪と必要不必要を分けて考える力である。
美味いと思ったら食えばいいし、不味いと思えば食わなければいい。
食う必要があると考えれば食えばいいし、必要なしと考えれば食わなければいいのだ。

現代においては、むしろ好き嫌いをはっきり持つことが重要なのではないかと愚考する次第である。
 

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