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2008/1/13 人生における、雑感、ボヤキ、など。
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盆暗二人が大河ドラマを談じてみました。
まあ、ほんの茶飲み話程度に。


「大河は、平安時代が面白いと思うんだ」
「平安時代?」

なかなかに難しそうだと思う。
まあ、戦国期にしても江戸期にしてもそうだが、人間の価値観というものが現代とは著しく違っている。
例を挙げるならば近親婚あたりが適当であろう。
皇統などを見てみると、いとこはとこは当然として、異母、異父あるいは全兄弟姉妹などが平気で恋をしたり結婚したりしている。
正直、現代の感覚ではいささか解かり辛い(いやまあ我々のようなエロゲヲタにはある意味それがいい的なところもあるのだが、しかしリアル姉やリアル妹の居る方なら頷いていただけるだろう)であろう事想像に難くない。
というよりも、ドン引きされてしまうであろう。
一般の視聴者の方々には。
そのあたりはごく一例であって、それ以外でも多くの価値観の齟齬というものが、古典を読んでいると見えてくることがままある。
まあ、それを納得いくものに仕立てるのが脚本家の腕の見せ所という見方もあろう。
だが、それらの感覚の違いというものを強引に現代の感覚でもって読み解いたつもりになっても、往々にして読み違えてしまうものである。
当方の実感としては、わからないものはわからないままにするしかない、というのが正解に限りなく近いような気がする。
ああ、そういうもんだ、と。

「んー・・・。ま、いいや。で、どんなお話がいいの?」
「そりゃあもう決まっているさ、宮中での藤原一族の陰謀劇を中心に、こう愛憎ドロドロの、彼と彼女がくっついたが、しかし彼女のおなかには前の彼の子供が・・・みたいな」
「・・・・・・」

ああ、そういやこの人、昼ドラとか大好きだったなあ。
おかあさんと一緒に韓流ドラマとか見てるらしいし。
ある意味、それをNHKにやれというのも酷な話である。

「いや、ムリじゃね?NHK的に」
「いやいや、最近の大河なんて、ジャニタレさえ出してればなんでもありでしょ」
「ええ?そうなの?」

家のテレビがぶっ壊れてからというもの、ここ数年自宅でテレビをみることがなくなってしまった地デジ難民ならぬリアルテレビ難民である。
昨今の芸能事情なぞさっぱりわからん。

「で、陰謀劇というと、主人公は?」
「当然、藤原道長。歴史の教科書でもあの時代の一番の目玉でしょ」
「まあ、そうだろうけど、で、どんな陰謀劇?」
「まあ、それは・・・ほら、あるでしょ?自分の娘天皇の嫁さんにして子供が生まれたら天皇にして自分は摂政におさまったりとか・・・」
「そのまんまじゃん。別段、陰謀でもなんでもないだろ?」
「いやいや、なんかさ、いかにも悪そうだろ、実際。奴は相当悪いって、月も欠けないんだぜ?」
「えええ?そんなこと言われても・・・」

もうむちゃくちゃである。
馬鹿な話してるなあ、俺ら。
兎に角、なんとしても藤原氏で、且つ、陰謀でドロドロがいいらしい。
詳しい事はわからぬ様子だが。
ならば・・・。

「その話聞いてると、薬子のこと思い浮かぶなあ、あれなんかお前さんの言うドロドロ陰謀劇にぴったりなような気もするんだが」
「クスコ?」
「そう、藤原薬子、まあ、日本の傾城だわな」


本来、藤原氏の系統というのは、中臣鎌足の子藤原不比等から大きく四つに分けられる。
その四つとは、藤原房前の北家、藤原武智麻呂の南家、藤原宇合の式家、藤原麻呂の京家である。
いずれも不比等の子であり、南北家は平城京における家の位置からこの様に呼ばれるようになり、式家は宇合が式部卿であったから、京家は麻呂が左京大夫であったことからである。
歴史上、京家は全く振るわなかったが、他の三家はそれぞれ絶頂期が存在し、特に道長は北家の系統で、その後の五摂家などは全がてこの北家系藤原氏であるといえる。
このあたりまでは中学レベルの教科書歴史である。

藤原薬子というのは藤原式家の人である。
当時、薬子のじいさんである式家清成の弟に、藤原百川という人が出た。
この漢はなかなかに強烈な人間で、官位こそ式部卿までしかいかなかったが、しかし時の天皇光仁の即位に大功があり、そのあとの天皇桓武もこの人が即位させたようなものである。
この百川のおかげで、藤原式家は他の三家やその他大伴や佐伯、秦氏などの豪族を押しのけ絶頂期を迎えたのである。
ここでは説明しないが、この百川という人はなかなかの辣腕にして豪胆、面白い話が山ほどある人だ。
気になった方がいたなら、調べてみるのも一興だろう。

話を薬子に戻す。
桓武天皇の代に、この薬子が東宮(一般に皇太子が住まいする場所である)へ高級女官として出仕することとなった。
これは、薬子の長女が皇太子の枕席に侍る役割を与えられたからで、所謂皇太子のハレムに入ったわけであるが、そのつきそい(と言っては語弊がありそうだが)として、東宮における事務方の宮女の役を与えられたわけである。
当然、当時の薬子は夫もおり、これは同じ式家の清成じいさんの弟、蔵下麻呂の子の式家縄主という人であるが、この人との間に三男二女をもうけている。
正確な年齢はわからぬが、恐らくは三十二~三といったところであったというのが定説である。
さて、そのようないきさつで東宮勤めを始めた薬子であるが、さにやあらぬか、なんと皇太子安殿(後の平城天皇)の手がついてしまったのである。

当時安殿は二十二~三といったところで、薬子は十歳ほども年上である。
その上、当時の女三十代といえば、もう年増も年増、大年増といってもよいだろう。
このことから、薬子の容色は.相当のものだったろうことが窺い知れるが、収まらないのが今上、桓武天皇である。
「ちょ、おま、いやいや親子丼ってなんてうらやま、もといとんでもない事をしでかしやがりましたか」
などといったかどうかは知らないが、もともと式家の百川に多大の恩義のある桓武天皇である。
その百川こそ数年前に物故したが、同族の式家には非常な愛情を持って接してきた今上である。
皇后には百川の長兄、良継の娘乙牟漏を入れ、百川の長子緒継には自ら烏帽子親となって加冠させ、彼の一大事業、長岡遷都の造営使には薬子の親である種継を当て、側近中の側近として信頼を寄せており、まさに藤原式家は往時の皇室の一大与党と化していた。
そんな一族の顔に泥を塗ったくるような今回の出来事、しかも相手は信頼する腹心の娘であり、親子丼であり不倫であり、いやそれは実際次の天皇としてどうなのよ?といいたくなる気持ちもよくわかる。
当然桓武とうさん、怒り狂った事想像に難くない。

それだけではとどまらない。
当時の東宮大夫(東宮の長官として警備や規律の取り締まりを行う官職)である北家葛野麻呂とも同時に情を交わしていた事がわかったのである。
考えるに、これは口止め料的な意味合いが強いであろう。
安殿との関係を黙過してもらうための関係であった事、想像に難くない。
いやはや、なんとも・・・。

このことに関する今上の裁断は以下のとおりである。
薬子は東宮宣旨の職を解かれ、東宮に出入り禁止とする。
薬子の夫、式家縄主を東宮大夫へ任官する。
東宮大夫であった北家葛野麻呂は太宰第弐へ任官する。

つまり薬子を家に戻し、その上で関係を続けぬよう式家縄主に東宮と薬子の監視をさせ、事実上の責任者であった葛野麻呂は遠く九州へ島流しの懲罰人事である。
今回については、皇太子にはお咎めなしという事となった。
日本史上に燦然と輝く偉大なる桓武天皇もさすがに人の親か、いやいや、この皇太子安殿は皇后乙牟漏の所生であり、とがめぬ事こそ式家への詫びという事となるだろう。
頭の痛い事である。

その八年後、いよいよ桓武天皇が卒し、皇太子安殿が平城天皇となる。
怖いお父さんが居なくなり、今上が真っ先にしたことは宮中に薬子を入れることであった。
八年、薬子は不惑を過ぎたところである。
百年の恋も冷めるかと思いきや、まあ今上のめり込む事一方ではない様子。
この平城天皇というひとの純真さというのもあるのだろうが、やはり薬子という女、まさしく傾城、魔性の女と言わざるを得ない。
四十にもなって十も年下の男を虜にして離さない、凄まじいものである。

それにしても、この平城天皇という人は、果たしてどのような人間なのか。
彼の行った政策を見るに、頭脳はなかなかに切れる人間の様に見える。
ただ、やはり桓武と嵯峨という双璧に挟まれたためか、天皇としての事跡という意味合いでは、いかにも小さく映ってしまう。
怨霊なんかを極度に恐れて眠れなくなったり体を壊したりするところはいかにも人間が小さく見えるが、父親が死んで天皇となったからといって、途端に夫の居る女性を公然とモノにするというのは豪胆といってよいのだろうか?
あるいは、ただ単純に子供なだけ、という気がする。
その上、なんとまあ、今度は薬子の夫であるところの式家縄主を太宰第弐としてトばしてしまったのである。
嫉妬に狂って、としか言いようがないのだろうか?
あるいは、これは野心旺盛な薬子の教唆と見ても良さそうな気がする。
夫のある身で、招かれたからといってホイホイ宮中に上がりこみ住み着き、今上うを誑し込むほどの女である。
ただの恋愛感情だけとは到底思えないというのが当方の考えだがどうだろう。

ちなみに、八年前大宰府に流された北家葛野麻呂は、というと。
この人もなかなか紆余曲折あった人間である。
大宰府に流されたその後、桓武天皇から直々に遣唐使への指名がある。
当時の遣唐使などというものは、所謂運任せの生きるか死ぬか的な大博打である。
実際、一度などはこの葛野麻呂が乗った船が難破し、多くの船員が水漬く屍となるなか、九死に一生を得たといったこともあったようである。
それでも再び船を仕立て、何とかかんとか役目を果たして、見事生還した彼は、従三位に序せられ中央に返り咲き、桓武死後、再び東宮大夫として任官されるに至る。
桓武天皇としては、懲罰と同時に禊の意味での遣唐使任命であったのかも知れない。
ただし、中央に返り咲いてからも、彼は薬子の与党でありつづけ、どうやら肉体関係も復活していたと史料にも読めるフシがある。
ところが、それを平城天皇が勘付いたのか、たった一年で東宮大夫を解かれ、今度は観察使として日本全国を廻る職に任命されるのである。
どうやら三度、島流しといって良さそうだ。
困ったものである。

この平城天皇の在位期間は三年ほどとごく短い。
というのも、上皇として大いに権勢を振るいたい腹がマンマンだったのである。
実際、皇位を嵯峨天皇に禅譲する際は、体調不良云々を理由に挙げているが、その後は奈良、つまりは前の都である平城京に広壮な邸宅を構え、そこから次々と高官達を取り込み、院宣を発し始めたのである。
天皇を辞する寸前、薬子の亡父である式家種継へ太政大臣の追贈も行った。
太政大臣とは、当時の官職における最高位であり、事実は贈名であり、朝廷の運営において多大な功績のあった最高位の人間の死後に贈る、名誉官職のようなものである。
もともと中納言程度の官位であった人に対し、これは未曾有の叙任といってもよい。
この裏側には、やはり薬子の影が透けて見える。

これで面白くないのが嵯峨天皇である。
もともと平城上太皇とはしっくりいっていなかった嵯峨天皇、表面上は租税を奈良の維持費に回したりと、諾々と従う姿を見せていた様子である。
その身内にどす黒い憤怒の炎を隠しつつ、だ。
この姿を見た平城方の人間は、薬子の兄式家仲成を筆頭に、どんどん今上を侮り調子に乗っていく始末。
畢竟、平城方の奈良の評判は悪化の一途をたどり、ついには歴史上『薬子の乱』と呼ばれる反乱未遂事件に発展するのである。

事の発端は平城方の平城京への再遷都計画である。
これを伝え聞いた嵯峨天皇は
「使える!」
と思ったに違いない。
これまで好き勝手やってきた義理の父親とも呼べる平城上太皇に強烈な肘鉄を食らわせるチャンスである。

まず、彼の蝦夷との戦争で一躍時の人となった武人、坂上田村麻呂や藤原北家の主流、北家冬嗣を造営使として平城京に送り込む。
もちろん、あらかじめこの二人は嵯峨の自家薬籠中のものとなっている。
その上で群臣百官に
「平城方から平城京遷都の話があった。止むをえず、この話に乗ろうと思う」
というような朝議を開く。
畢竟、群臣たちも畿内の豪族たちも散々に騒ぎ始める。
それはそうだ。
ここ数十年に平城京から長岡京、さらには平安京と三度遷都が行われている。
ここで更に領民や付近豪族の負担を増大させる意味なし遷都など行えば、どうなるものか知れたものではない。
すぐさま不穏な空気が朝廷、そして畿内全域に広がったであろう。
中には
「平城上太皇、並びに元凶である薬子、仲成兄妹誅すべし」
という声も出たかもしれない。
次の手は
「此度の事で、畿内が何かと騒がしい。兵を送って沈静する」
という名目で、奈良から東国への出口である大和、尾張、南近江など東に兵を送り扼してしうまう。
そこまで手を打っていよいよ奈良方の重鎮である薬子の兄、仲成を捕縛し、同時に詔を天下に発する。

「現在の天下不穏の種は、全て薬子と仲成に二人にある。平城太上皇が哀れみをもっての処遇を履き違え、次々天下に弓引く事をする。一々挙げるに耐えざる所業であり、以って両人を宮中より放逐する事とする」

さすがに嵯峨とはいえ、先の天皇を槍玉に挙げるのは露悪的に過ぎたのだろう。
それをすれば、天皇の権威を徒に軽くする事になりかねず、罪は、世間より最も憎まれる二人に帰せば目的は達するというわけである。

これを伝え聞いた平城、薬子は嚇怒する。
「おのれこわっぱめ。このわしと事を構えようというのか」
彼らは嵯峨の予想通り兵を募るため東へ向かう道を選択し、嵯峨は半神的ともいえる武人、坂上田村麻呂や嵯峨朝廷の補翼である北家冬嗣を使って追撃させた。
このときすでに仲成は左衛士府で射殺されている。
まんまと策にはまった平城と薬子、それを取り巻く奈良方の与党たちは、東への出口を押さえられている事を知り、結句、引き返すより手は残されていなかった。

平城京について薬子は自害、平城は髪を下ろした。
その後平城は十四年ほど生きて、かつて天皇だった男は僧として落剥し、わびしい晩年を送ることとなる。
ちなみに、薬子の与党として参画していた北家葛野麻呂であるが、これは罪に落とされそうになったが、観察使として遠ざけられていた過去が利いたか、無罪放免となっている。
人間、なにが幸いするかわからぬものである。
あるいは同族の冬嗣の口利きがあったのかも知れん。
史料からは読み取れないが、ありそうなことである。

一人の天皇を狂わせ、名君と呼ぶに相応しい一人の天皇をさんざ走らせ、もう一人の偉大な天皇を警戒させ悩ませた、まさに見事な傾城の生き様であったといえる。


「いやいや、スゴイネ?」
「んだべ。華やかさという点では平安中期の藤原道長はたしかに有名だけど、やはり歴史のダイナミズムや下世話な楽しさという点では聖武─孝謙(女帝)─光仁─桓武─平城─嵯峨という奈良後期~平安初期が一番おもすれえな」
若干得意気味である。
熱の入った与太話であった。
「これはもう、この時代を大河で作ってもらうしか!」
「・・・・・・」
いずれ、NHKにはハードルが高そうなのは変わりない。
「いや、やっぱムリだろ、実際」
「ええええ?」
何のためのお話だったのか。
まあ、せいぜい語れたから良しとするか。
それにしても、NHKほんとにこれで大河作ってくれねえかな?
面白そうだと思うのだがなあ。


追記

興が乗って、ついつい書きすぎてしまった嫌いがある。
茶飲み話なんてとんでもない、という向きもあろうが。
実際の会話ではもっと簡潔で、しかも『アレ』とか『ソレ』とかいう指示語が飛び交っていた。
歳をとると、人名を筆頭とした固有名詞が出てこねえで困ったものだ。
書き下ろすに伴い、ざっと調べ上げたら面白くて止まらなくなった次第である。
 

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