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2008/1/13 人生における、雑感、ボヤキ、など。
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パクリである。
たしか芥川だったか。
まあいいや。

この時期になると決まってある衝動に悩まされる。
その衝動とは・・・
”葡萄を漬けたい”
というものである。
葡萄と言ってもさまざまあるが、当方が漬けたいと身もだえしているのはいわゆる”山葡萄”というやつである。

田舎に住んでいた頃は家の裏手に行けば葡萄の蔓などいくらでもあったものだが。
さすがに現在住んでいる札幌ではそうはいかないようだ。
しかもアパート暮らしである。
保存に相応しい冷暗所などあろうはずも無い。
せっかく漬けた葡萄も腐らせてしまうのがオチである。
流し台も小さなものだし、とってきた葡萄を洗うのも一苦労である。
そんな諸々の理由で断念せざるを得ない状況が続いている。
ああ、田舎の山々が恋しいなあ。

さて、具体的に”葡萄を漬ける”とはどのようなことか?
そのあたりを説明せねばピンとこない方も多いであろう。
ここで説明フェイズである。

まず、用意するもの。

☆ 砂糖たくさん
☆ 程よい大きさの樽か甕
☆ 保存場所(冷暗所、蔵や地下ムロなどがあればgood)

これだけである。
こいつらを用意したらば葡萄のなってる山へGOである。

山の葡萄を狩り尽くす勢いで取ってきたら、次は葡萄を房から外す作業である。
これが中々に大変。
座りっぱなしでプチプチプチプチ・・・。
なかなか減らない葡萄の山を相手の格闘だ。
人生における苦悩や深い思索が頭に浮かんできそうなひと時である。
人によっては死にたくなったりするかも知れぬ。
踏みとどまってください。
一応果物なので、ムシさんやゴミ等がついていることもあるが、それらは出来るだけきれいに取り除いていく。
このあたり、おろそかにすると畢竟仕上がりにも差がつく。
かんしゃくなど起こさず、丁寧に行うべきである。

結構取ってきたと思っても、房を除けば案外無いものである。
後に残った葡萄の実をざっと水洗いする。
房を外しているので、処女を相手にするが如く、優しく扱うのが肝要である。
めぼしいゴミなどはあらかじめ取っているはずなので、軽く汚れを落とす程度でよい。
水から揚げた葡萄は笊などにあけ、水を切っておく。

水切りが済んだらいよいよ用意の樽の登場である。
ホームセンターなどで売っているプラスチックの樽で十分である。
まず、ざっと樽の底が隠れるくらい、葡萄を敷き詰める。
その後に砂糖を満遍なく振る。
分量はまあ目分量である。
ちょっと多いかな?というくらい振るのがいい。
そしてその作業を繰り返す。
葡萄、砂糖、葡萄、砂糖・・・。
それで終了である。
まあ、極々簡単なものである。

漬け込んだ後は軽くビニールなどをかぶせ、木蓋などをしておくと良い。
一応、糖があるのであたりに漂う天然酵母がそれなりの仕事をしてくれる。
これは腐敗を防ぐためにも必要なので、密閉はしないようにするのが重要である。
建前上はただよう酵母どもが”勝手に”やらかしたことなので、当方といたしましても汗顔の至りであり、非常に遺憾である。
とはいえ、多少醸したところでそれほどアルコールは高くはならないのでお子様も安心であるが・・・。
人工的なドライイーストなどの酵母を加えるわけでもないし、漬け込みの期間もせいぜいが二~三ヶ月程度なので、1%まで行かないであろう。

さて、漬け終わったら後は放置である。
きれいさっぱり存在を忘れ去るのがハードボイルドなやり方だ。
気にしすぎるのは無粋というものである。
後は運を天に任せるのが、良い。

で、雪の降る頃・・・。
お正月あたりにふと、そのときのことを思い出すわけだ。
「そういえば、秋に葡萄漬けたっけな」
葡萄樽を引っ張り出して蓋を開けるとあら不思議。
濃い紫色の液体でひたひたになっているという寸法である。
市販の葡萄ジュースなどとは比べ物にならぬ深い味わい。
ごくわずか、アルコールの香りがする。
そのまま行くのも良し。
水で、焼酎で、割って飲むのも良し。
タネとなった葡萄もそのままイケる。
やわらかく、デザートとしてもおいしいが、紅葉おろしの要領で大根おろしと合わせるのも結構ですな。
お菓子作りが好きな方にはいろいろなアイデアが湧きそうである。

というようなことを考え、身もだえする自分がいる。
あれは、いいものだ。
環境が整っている方には、ぜひ一度お試し頂きたい。
いずれ一軒家を購入する日でもきたら、毎年漬けてやるからな。
そんな野望に身を焦がす、この頃である。
 

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自分ではそんなことはないと思っていたのだが。
どうやら当方、相当な筋論、原則論の信者であるらしい。
歳をとっていささか頑迷さが出てきたようにも思う。
困ったものである。

どういったことかといえば、である。
近頃「エロ必要なし」という言葉をちらほら耳にするようになった。
エロゲに関してである。
ちかごろというよりずーっと言われていることかもしれない。
前述したとおり、自分の我慢が足りなくなったのか?
やけにそういった言葉が「目に付く」ようになってきたのである。

いや、それが別段悪いと言っているわけではない。
「俺はエロ目当てでエロゲーを買ってプレイしているわけではない。故にゲーム内のエロシーンは全部スキップしているぜ」
これはこれで筋が通っているように思う。
思うにこの人は恋愛ゲームやら美少女ゲームというものが大好きな人なのだろう。
だがしかし、そのように思い入れのあるヒロインがあのような行為に及ぶことが耐えられなかったり許せなかったりするのかもしれない。
わからんが。
その姿勢を貫き通すこと、なかなかに立派であるとすら思う。
或いはただ単純にストーリーの展開における夾雑物と感じてしまうのかも知れない。
たしかに読み物としての流れをぶった切るようなエロシーンはエロゲーにおいては多々存在するのも事実である。
どこかで見たことがあるが、エロゲーというジャンルが存在しなければ恐らくはアドベンチャーゲームという存在自体が駆逐され世の中より消えてなくなっていたことであろう。
が、純粋にこのADVが好きな人もおそらくは存在する。
で、現在、まともなADVをプレーしようとすれば、このエロゲーという一大分野は避けて通れないのである。
絶対数自体が圧倒的なのである。
玉石混交ではあるし、石が圧倒的に多数であるという現実もあるのがエロゲーマーとしては辛いところであるが。

・・・ここまでわかっていて何にわだかまっているのか?
簡単なことである。
エロ不要と公言して憚らない連中の精神的な構造についてである。
より具体的には、エロゲーを購入しながらエロに関して否定的或いはエロの存在自体を馬鹿にしくさった連中に、である。

原則としてエロゲーとは
”エロのあるゲーム”
である。
エロの無いゲームはエロゲーとは呼ばない。
つまり、エロがあるのがあたりまえなのである。
が、連中にはそんなことは関係ない。
エロゲーにエロがあることそれ自体が”悪”なのである。
そして声高にのたまうのである。
「エロなんざ必要なし」と。

必要ないと思うこと自体、悪いことではない。
斯く言う当方も、時として「エロ必要ないなあ」と思うことも(不本意ながら)ある。
が、それはあくまでそのエロゲーにおけるエロの”質”に問題があるのであって、エロゲーというジャンルにおいて本質的にエロが必要ないということでは断じてないのである。
エロが悪いわけではない。
ただただ良いエロと悪いエロがあるだけなのである。

上記のようなエロ不要論者に対しては事あるごとに
「だったらエロゲーやんなよ」
とか思ってしまうわけではあるが、残念ながら馬耳東風である。
彼らの言い分は大体上に挙げたとおり。
「エロゲーは好きだがエロは嫌い」
そんなところだ。
筋もクソもあったモンじゃない。
ならば潔くスキップでもして済ませればよいものをナゼだかその未熟な攻撃性はエロそのものやエロ目当てでプレイしているユーザーに向かうのである。

世の中にはいやな奴が多い。
自分がどれほど阿呆なことを言っているかも理解できないのである。
そして他人を不快にさせる。
わかっててやってるのかなあ?
だったら困ったものである。
 

さて、最上である。
現在当方が遊んでいる信長の野望において、最上氏が当初自分を含め三人しか武将がいないというのは以前話したとおりである。
たとえば同様のシナリオゼロにおいて、有名どころの織田氏、今川氏、北条氏、武田氏、毛利氏、長尾氏などは比較的潤沢な人的資源を保有している。
果たしてこの格差はどこに起因するのか?
そのことについていささかなり、思うところを述べてみたい。

もちろん年代当初は最上氏の力などごく微弱なものであったから、ということは否定できない。
そも、最上氏というのはどういった家柄であったのか?
この最上氏、歴とした清和源氏の家系である。
もともとは奥羽探題で清和源氏である斯波氏が大崎氏を名乗り、その庶流である大崎某が羽州の最上郡に居を定めたところから最上氏の始まりとなる。
たとえば、織田信長ははじめ藤原氏を名乗っていたが後に平氏を名乗り、豊太閤豊臣秀吉はえらくなってから自分平氏ですなどと素性のわからぬ不良少年上がりのくせにそんなことをいい出し、徳川氏などは清和源氏でございなどといっているがこれも相当に怪しいものである。
これは中華であっても同様だが、戦国期と名のつく時期には、必ず権力の降下が伴うのである。

将軍家を頂点とした武家社会で考えてみよう。
先ずは最もえらいのが足利将軍家である。
足利将軍から細川氏や斯波氏、畠山氏など、有力な武門の血族が各地の守護や探題などに任官される。
ここで実質的な権力は将軍家→守護大名と降下する。
各守護大名家は京都に居を構え、自分の一門や家来などを現地へ守護代(行政官)として送り込む。
ここでも守護大名→守護代へ権力が降下する。
そして守護代はその家宰へ、そして家宰は自家の家来へと、どんどん実質的な権力が降下してゆき、権力構造のピラミッド上部は形骸化してゆくのである。
これが所謂、教科書で習う下克上というものの本質であり、その際には当然、血統として胡散臭いものも多数台頭するのである。
まあ、あとで必死に取り繕う訳だが。

いささか説明が長くなったが。
つまりはそのあたりの胡散臭い血韻と違い、最上家は中々に由緒正しい血統であるということである。
それがどうしてこのような、配下が二人しかいない(?)ちっぽけな土豪に成り下がってしまったのか。
これは過剰な分割相続による領土争いの激化が原因と考えられる。

室町初期には、本家大崎氏をしのぎ探題を自称するほどの最上黄金期があったようである。
が、兄弟や血族にどんどん領土を分け与え相続させた結果、最上本家の力は見る見る衰微し、血族同士の血で血を洗う抗争が始まるわけである。
これもまた、下克上の一形態と捕らえられなくも無い。
が、当方としては、どうやら室町幕府成立時の足利尊氏のあり方を思い出してしまう。
戦功のあったもの、或いは土着の豪族などに派手に領土を与えすぎてしまったというアレである。
当時は室町幕府自体もそこまでは衰微していなかったし、或いは権力者としての当然のあり方だったのかも知れないが、結局はそんな気前のよさがアダとなり、出羽の一豪族に過ぎなくなってしまうわけである。
そこを、陸奥の伊達氏に大いに付け込まれるのである。
どういうことかといえば、つまりは最上本家は伊達家に取り込まれてしまったということである。
そして伊達家が最上家に頭首として送り込んだのが現在自分がプレイしている現最上頭首、最上義守その人である。

1500年頃の伊達氏は奥羽に覇を唱えた一大勢力である。
その頃には大崎氏のものであった管領職に補任も受けている。
伊達氏とは。
鎌倉初期、奥羽藤原氏との戦争に出た源頼朝に従った藤原氏の某が祖であるとも言う。
が、これも正直とても胡散臭い。
当時の土着の豪族であるかも知れず、血韻的には源平藤橘というように、武門としては清和源氏には比べるべくもない粗末なものである。
このような伊達氏に取り込まれた最上本家の悲嘆はいかばかりであったものか。
後に天文の乱という伊達家の、奥羽全土を巻き込んだ一種のお家騒動により、伊達家は乱離骨灰となり米沢一国に引きこもることとなる。
傀儡であった義守もそのクビキから脱するわけであるが、いかに傀儡とはいえ、このときの最上本家家臣団の怨嗟が独立の基になった感は否めないであろう。

斯様に最上家、山あり谷ありである。
が、最後の一山はやはり出羽の驍将、最上義光の登場であろう。
前回、最上義守の野望でも述べたとおり、この義光、父である義守を隠居させ、頭首の座についている。
これについては親子の仲が険悪になり、天正最上の乱になったといわれている。
が、原因ははっきりしていない。
なぜ、そこまで険悪になってしまったのか?
諸説あるが、一般に言われている義守が兄の義光ではなく弟の義時を溺愛し、家督を彼に譲ろうとしたために義光が武力排除に踏み切った、というのは恐らくはまあ間違いであろう。

この義時という人、実在しないのではないかという説がある。
最上家の消息を伝えるいくつかの史料に、この人の名前が出ていないという事がある。
ある意味センセーショナルな話題のため、もしこの説が事実であったなら恐らくはどの史料にも必ず朱書きされるはず。
が、そのような記述自体もそうは見かけられないというのが実際なのだ。
まあ、確かにあまり外聞のいい話とはいえないので史料で封殺してしまった可能性は否定しきれない。
が、他家の史料では外聞関係なく面白い話ではあるので残されているはず、が、それが見受けられない。
そしてこれが大事なのであるが、最上家の史料というもの自体、伊達系や他家の家譜等を除いてほとんど”残っていない”のである。
しかし、義光が父親を隠居させ、最上の実権を握ったというのは本当であるようだ。
さて、どういうことであろう。

ここで推理してみると、恐らくはこの親子闘争の根底には「独立派」と「親伊達派」という二つの派閥の抗争があったのではないかと見る。
もとより最上義守という人は伊達家より傀儡として最上家に使わされた人である。
彼の権力の源流というものは伊達家より出ており(そもそもが最上における小さな支族の出身である)、独立したとはいえ、伊達家とは緩やかな友好(隷属)関係で国を切り回してゆきたいと考えていた。
そこで現れたのが彼の嫡子、義光である。
長じるにつれ、その優れた資質が顕れ始めた。
優れた体躯、怜悧な頭脳。
そして何より現在の様に伊達家に隷属するをよしとしない考え方、である。
父としては当然看過できない事態である。
そこで義守は幾度も「伊達を頼れ」と教育したであろうことが考えられる。

対する息子義光は断じて父を嫌っていたわけではない。
難しい局面に支族出身の父は、形の上とはいえ独立まで持ってゆき国をまとめたのである。
が、彼の時勢への感覚というものが、伊達に隷属し続けたこの先の最上家の限界というものを見通してしまったのかも知れない。
そして、伊達家の力が大いに弱まっている今こそ、完全なる自立の好機と捉えたのであろう。
かつて伊達家が奥羽に扶植していた力は絶大で、時機を逃せば伊達家はまた力を戻すことも考えられる。
実際、最上家中にも伊達与党は存在する。
当然、周辺諸豪族にも伊達待望論があったと見るべきである。
武士団、というものは常に所領を巡る争いが絶えないため、ある意味大きな力を持った裁定者を必要とするものである。
その後の伊達家の伸張も歴史が証明していることである。
ならばと即位前に独立派を糾合し親伊達派を圧迫、その首魁として国論を完全独立に持っていこうとしたのではないか。

ここまでされては父も黙ってはいられない。
息子の考えを危険なものと判断し、ひそかに廃嫡をすすめ、そして新たな嫡子の選定に入ったのではないか?
ここで更に想像の翼を広げると、或いはその話自体が米沢の伊達本家に聞こえていたとも考えられる。
あくどい考え方ではあるが、伊達としては新たな嫡子に伊達の血族の一人を義守の養子に入れるということも謀ったのではなかろうか?
そのように考えるとこれは伊達家の悪謀の一大スキャンダルでもある。
伊達系の史料にこの周辺の事実が載っていないことにもうなずけるというものである。
当然、義守としてもそこまでのことは望んではいなかった。
自分の息子か、或いは支族の中の良い年頃の子を養子に迎え、速やかに廃嫡を行うはずであったろう。
このあたり、義光の英気を知る父だけに、伊達も絡んでしまい心中複雑であったに違いない。

当然、そのことを義光は察知する。
結果、糾合した独立派による武力蜂起、そして天正最上の兵乱となるのである。
結果から言えば、老臣格の氏家直定が独立派に与力したことにより、決着はあっさりとついた。
義光としても父親をどうこうするつもりはなく、隠居、そして出家して政務に関らぬという誓紙をとり、この一件は落着となる。
穏やかにすごしてくださいという親思う子心というものであろう。
その後はご存知のとおり、最上は関が原後、六十万石弱(実高百万石とも)もの大大名に出世するわけである。

前述したが、最上家に関する史料はほとんど”残っていない”のである。
不幸は江戸初期に最上家が改易されたことであろう。
これは義光の後継者を巡るいわゆるお家騒動である。
父の通った道を息子たちも再び通るわけである。
まあ、ここではそれは置くとしよう。
この御家騒動により、最上家が家譜などを編纂することが出来なかった、あるいはすでにあったものが散逸してしまったというのが、最上の武将が二人しかいないという不幸につながるわけである。
その後、その血統の途絶えるのを惜しいとした幕府により、最上家は一万石の交代寄合としてどっからか引っ張ってきた怪しい血縁者を立て、家を再興することとなる。
が、当然当時のことに詳しい家臣団も離散し、最上のたどってきた詳しい道程なども家譜として編纂されることもなかった。
江戸期に出た最上に関する軍記物はいくつかあるが、どれも史料としては三流のものばかりである。

これはどこかで読んだことだが。

「史料としては当時、尾張とその周辺のみが光の当たるところであり、つまりは文字を読み書きできるという文化の度合いが高かったのであり、また、権力を保持し続けたために史料の散逸が防げたということである。その点においては京都のある山城やその周辺なども同様に日陰の状態であり、尾張兵が流れ込んだことにより人物的にも地勢的にも光が当てられてゆくのである」

歴史は、常に、勝者のものである。
いくら最上が小国とはいえ、代表する人材が二人だけなわけがないのである。
中には政務に長けた人間もいたことだろう。
戦場において、いい働きをした人間も、もっといたに違いない。
が、悲しいかな、歴史に残らなければ我々はそれを知るすべがないのである。
であるからして武将が二人だけなどという悲しい現実に直面せざるを得ないわけで・・・。
とか、野望をプレイしながら歴史に対して思いを馳せたりする一日である。
 

あるときを境に、自分はオリンピックというものが嫌いになった。
さて、いつのことだったか・・・。
自分がある程度知恵らしきものをつけ初めた時分であるから、かれこれ二十年ほど前のことであろうか?

とはいえ、そんな大それたことがあったわけではない。
ことは単純明快、(恐らくだが)IOCの定める放映権料が、日本に対して圧倒的に不平等、具体的には大いに吹っかけられていると知ったときである。
それ以前は、まあ四年に一度のお祭りであり、さまざまな競技において頑張っている人が結果を出す、いわば晴舞台であり、無邪気に喜んでいたものだと記憶している。
が、その事実を知ったときから、大いにあの巨大なスポーツの祭典というものに嫌悪感を抱くようになった。
裏切られた、という思いに近いであろう。
所詮は金か、と。
当時はまだまだ若造であり、多感な時期でもあった。
盗んだバイクで走り出しそうな勢いである。

若さゆえ、というやつだ。
自分の嫌いなもの、理解できないものを憎悪し、攻撃し、排斥し、徹底的に貶めてやりたいなどと考えるのは。
ある程度ヨワイというものを重ねれば、それはより静かな対応、つまりは緩やかな無関心というものにすりかえて己の内で決着するようになる。
人によるかも知れないが。

たとえば、である。
学生の時分、クラスに嫌いな人間がいたとしよう。
理由はさまざまであろうが。
態度が悪いとか、口が悪いとか、話が合わないとか、中には生理的にいや、というものまであるだろう。
そういった人間に対して、どのような対応をするかということである。
高校生くらいになれば、そのような人間とは交わらなければ良い、ということがわかってくる。
礼を失さない程度の対応は必要だが、関心を持たず、交わらないようにすればそれでおしまいである。
「お前になんか関心はないし、友達になんかならないよ」
というのをそれとなく態度であらわすのである。
ここまでの経験則では、自分がそのように思っていれば、往々にして向こうもこちらと交わろうとはしないものだ。
ま、陰口の一つも叩かれているかも知れないが。
だが、小学生や中学生などの年代はどうやら違う。
嫌いなもの、理解できないもの。
そういったものを積極的に憎悪しようとする。
そして莫大なエネルギーを消費して、それらを攻撃、排除しようとするのである。
それらの情動が端的に言えば”いじめ”というものになるのだと考える。
個人差はあれど、このような攻撃性など、餓鬼の時分は誰しも隠せないものである。

が、あるとき。
己のうちの攻撃性というものに、ふと気が付く。
そして考えるのである。
このようなものをたやすく発露させるのはジンセイにおいて大いなる無駄である、と。
何しろ、なにかを積極的に憎悪する、憎悪しつづけるというのは莫大なエネルギーを必要とする。
そして、嫌いであることと自分にとって無益であることは必ずしもイコールとならぬことを知るのである。
ゆえに、対象が人間であれ、事物であれ、適度な距離感というものを学んでいくのである。

話を戻そう。
当時の自分はまさしくそれであった。
ただし、そんな攻撃性の矛先は”オリンピック”に象徴される不公平で理不尽な、善人面した拝金主義者どもに向けられていた。
なんと青臭いことか。
所詮、世界の片隅のクソガキになんぞ、できることなど何もない。
叫ぼうがわめこうが、竜車に蟷螂である。
結果として、自分は実践することとなる。
「誰があんなもの見るか!一生オリンピックなんぞ見ないからな!」
笑ってしまうが、これがつまりは距離感というものである。
自分は結局のところ何も出来ない。
ならばせめて関ることだけはいたすまい、と。
動機は無関心というものとはかけ離れてはいるが。

時は流れ。
憎悪の炎を燃やしていた青臭い少年も、いつしか枯淡の境地?に達する。
現在においてはまさに無関心である。
正直、どうでもいい。
”あー。オリンピックあるんだー。せいぜい頑張ってね。”
で、気が付くと終わっているなんてのが関の山であろう。
知り合いに聞くと
「あー。別段見たいとは思わないけど、見るものないとつい見入っちゃうんだよね」
などという答えが返ってくる。
ま、そんなものかも知れない。

しかし、今回は自分においては残念ながら、そのような機会は無いようだ。
なぜならば、つい先日、当家のテレビが崩壊したからである。
ウンともスンとも言わなくなった。
現在、テレビのない生活を送っているわけであるが。
実はこれ、なかなかいいかも知れない。
日々の生活が静かになったような気がする。
こうやって人間、どんどん取り残されていくのかなあ。
そんな風に思いながらも、なぜか新しいテレビを買う気の起きない自分である。
 

まあ、いろいろととりとめも無く。
のんびりしてください。

どうやら先週、件の放火魔つかまった模様。
とりあえず一安心である。
残念ながら顔は拝めなかった。
マスも逮捕シーンにたかっていて、テレビ放送もされたらしいが。
そこでもどうやらなんかかぶされていたらしい。
しかし、2人とはねえ。
世の中、ひまな奴が多いなあ。
そんなにひまならてめえにでも火ぃつけりゃあいいのに。

ちょっと調べてみたところ、放火は重罪であるらしい。
何とは無しに重罪っぽいという事は知っていたが。
放火罪は基本的に、二つに分類される。
一つは『非現住建造物等放火罪』。
もう一つは『現住建造物等放火罪』である。
前者の量刑は二年”以上”の懲役。
後者の量刑は五年”以上”の懲役または無期懲役、または死刑!ということであるそうな。
”以上”というのが刑の重さをあらわしている。

で、今回の放火の場合、どうなるのか?
ごみステーションへの放火であるのだが。
もちろん、人は住んでいない。
が、燃やされたところの何軒かはマンションなどと一体のステーションであった。
これは『現住建造物』のくくりに入るのかどうか。
そうなると量刑も一挙に跳ね上がることとなる。
それと件数である。
ヘボい警察のせいで、ずいぶんと件数を重ねてしまったようだ。
そのあたり、日本の司法はどうなのかなあ?
放火一件一件の量刑を加算していくのかな?
だったら大変な懲役年数になりそうではあるが・・・。
まあ、ザマあ見ろといったところか。
塀の中でせいぜい反省してください。

岐阜の馬鹿女の件もあったなあ。
この間ラーメン屋での顛末を書いたばかりなのに。
どういうんだろうね、ああゆうのは。
日本の恥を世界に晒してしまったのは確実だなあ。
織田信長も草葉の陰で号泣であろう。

ヨーロッパなどでは結構な重罪になると聞いたことがある。
詫び状一つですませようなんざ、ムシが良すぎやしねえか?
とりあえずイタリアに引き渡した後、煮るなり焼くなり好きにしてくださいというのが良い解決方法ではないかと思う。
このような馬鹿女一人のために、日本人すべてが色眼鏡で見られるのである。
世の中にはいろんな人間がいるが。
18、9にもなって、やって良い事と悪い事の区別もつかないのであろうか。
しかもご丁寧に名前と学校名まで入れちゃってまあ。
穴でしかモノを考えられない痛い馬鹿女の典型。
ほんと、首でもくくって消えてなくなって欲しいところである。

とまあのんびり等書いて刺々しい話題ばかりであった。
少々、反省が必要である。
もう少し、マッタリしたお話を書きたいなあ。
しかし、札幌中心部などでは随分とパンダが廻っているようだし。
ヘリなんかもブンブン飛び回っていて。
どうにも環境自体が刺々しくなってきているようである。
これもサミット効果という奴か。
とっとと終わって欲しいものである。
エロゲー持ってる時の職質だけは勘弁してください。



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